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Mukha

フォト

2007年8月27日 (月)

「うなぎ」の話

Photo  「淡水魚より、むしろ海水魚の図鑑に入れてほしい---」。「海水魚の図鑑にも」というのが正解か。<うなぎ博士>の東京大学教授・塚本勝巳氏の話である。うなぎは海で産卵し、河川の成育場の間を何千キロも回遊する。「うなぎは夏の新月、マリアナ沖の海山で産卵する」。塚本氏らは2年前、「ニホンウナギ」の産卵場についての画期的な発見をして世界の注目をあびた。しかし、うなぎの生態についてはまだまだ謎が多Photo_2い。「うなぎの不思議展」が東京・品川の「船の科学館」で開催中だ。その関連講演「ウナギ研究最前線」を26日に聞いた。「うなぎの生活史」など興味深い話が多かった。塚本氏は同時に、うなぎの養殖、「大量種苗生産技術の確立」を強調した。「シラスウナギ」が減少し輸出が規制されるようになったからだ。

 うなぎの生活史はこう説明されている。「産卵」(100万Photo_3 ~300万粒=海で生れる)→「孵化仔魚」(レプトファルス幼生=3~50㎜:海で育つ)→「稚魚」(シラスウナギ:50~60㎜=海から川へ)→「クロコ」(川で大きくなる)→「親うなぎ」(川から海へ)。親うなぎは約2000㎞を航海して、マリアナ諸島西方の「スルガ海山」で産卵して一生を終える。海山を、研究者は、オスとメスとの「出会いの場」「道しるべ」「待合所」と呼んでいる。約「北緯15°東経142」°の位置にある。日本からはるか彼方の産卵場までどう泳いで行くのか。<航路>は海の中層らしい。表層では外敵に遭う恐れがあり、深層はうなぎにとって水温が低くPhoto_4過ぎるということらしい。

 うなぎは海で1年、淡水で10年過すというが、その一生は固体によって違うことは言うまでもない。「耳石」(じせき)の年輪ならぬ毎日形成される「日周輪」でわかるという。産卵場のピンポイント特定(2005年6月7日)といい、ここまでのうなぎ研究の成果をあげるPhoto_5までに30年以上の歳月がかかっている。外洋での調査研究ができる船舶という 大掛かりな設備が必要であったからだ。塚本氏は東大海洋研究所先端海洋システム研究センター長。研究調査船「白鳳丸」の第一次研究航海(1973年)に大学院生として乗り組んでから何回も航海を続けている。今年8月Photo_6にも出かけた。狙いは「親うなぎの採捕」だったが、未獲に終わった。また、9月に出かけるという。うなぎの研究はそれほど難しいということだ。

 日本人は一人当たり年間4~5尾のうなぎを食べている。そのほとんどは天然のシラスウナギを捕獲して育てている。最近ではそれが減少しており、人工養殖の研究が進められている。水産総Photo_7合研究センターは2002年に卵からシラスウナギまでの飼育に成功した。昨年度には、親うなぎからの受精率は70%、孵化率は50%に向上、シラスウナギの生産は年間100尾台に達している。しかし、養殖に使われる億単位のシラスウナギを生産するまでには高いハードルが残されている。「うなぎの不思議展」では、うなぎの現物とともに人工養殖器が初公開されている。展示では生態面ばかりでなく、江戸時代からの「食物誌」も紹介されている。講演会終了後、小中学生が塚本氏にいろいろ質問していた。夏休みの自由研究テーマか。海と川とを回遊する謎に満ちたうなぎ。興味はつきない。「うなぎの不思議展」は9月30日まで。

2007年8月12日 (日)

水産大学校練習船「耕洋丸」

 もし予定に変更がなければ、「耕洋丸」は12日、母港Photo_5の下関港に入港し、しばらく点検整備の後、19日~31日まで東シナ海への航海に出発する計画だ。「曳網(えいもう)試験」のためである。「耕洋丸」は独立行政法人・水産大学校(山口県下関市永田本町)の漁業練習船。学生や教職員が船舶の運航、舶用機関、水産・海洋資源・海洋生物等についての教育、調査・研究を目的とした練習船。初代から数えて第4代目の新造船。最先端の航海設備や科学 的漁労設備を盛った<ハイテク洋上研究施設>である。

 概要を紹介しよう。全長87.59m、型幅13.60m、総トン数2352㌧Photo_9、航海速力14ノット、航続距離は1万海里におよぶ。航海日数は 約30日で、定員109人(職員49人、学生60人)。三菱重工下関造船所の建造で、平成18年9月5日起工、平成19年2月2日進水、6月29日竣工で建造費は総額64億6000万円。10日間の東シナ海での試験航海を行った。私は水産ジャーナリストの会の一員として8月1日、東京・品川の航海訓練所有明Photo_10専用桟橋に停泊中の耕洋丸を訪れ、田渕清春船長らの案内で船内を見学した。先ず耳に残った事は、居住区域が総て水面より上に設置された話。万一の場合の乗組員の脱出を考慮した。平成13年(2001年)2月10日にハワイ沖で、愛媛県立宇和島水産高等学校の練習船「えひめ丸」が米原子力潜水艦に衝突され、9人の犠牲者Photo_6を出した「えひめ丸」事件を教訓にしたものだ。もう一つは、男女別のトイレを設置したこと。女性の漁業への進出は著しいが、漁船は女性を配慮した「専用衛生区域」まで手が回っていないのが現状である。

 ハイテク設備。船舶運航の自動制御装置は当然として、Photo_73500mにおよぶロープを水深1000mまでの表層・中層・底層・深層を自由に操るトロール装置。投網、曳網の自動化、潮流・海底地形を3次元で表示できる超音波式多層流速計と超音波海底地形探査機器などを備えている。これだけ設備した漁船は現在日本国内にはない。世界でも数少ない船である。学生達が卒業後に「耕洋丸」で学び修得した技術を活かせる職場はほとんどない。水産界以外の仕事に就く水産大学校卒業生が多いのも事実であPhoto_8る。だからと言って、水産界後継者の育成を怠ってよいという理由にはならない。「耕洋丸」はサカナだけを獲る漁船ではない。教育船である。そこで学んだことは必ず他のことに応用できる。

 「耕洋丸」は8月4日に東京で、8日に神戸で一般公開された。停泊中でも数々の観測業務があり、学生達が交代で当たっている。若さをつつ む白い制服姿がまぶしい。

2007年7月26日 (木)

温暖化 魚介類への影響は?

Photo  調査対象34種の水産生物は海域を移動し、漁獲高の減少は予測されるものの獲れなくなることはない。しかし、「養殖」はかなり厳しい状況に追い込まれる---。「水産ジャーナリストの会」(梅崎義人会長)の7月研究会が24日午後6時から東京・虎ノ門の大日本水産会8階大会議室で開かれた。今回のテーマは「温暖化による我Photo_2が国水産生物の分布域の変化予測」。(社)国際環境研究会の資料解説で、講師はメンバーの一員・(株)東京久栄環境科学部長の小林聰氏。既に亜熱帯性の魚が北上しており、今後はこの種の魚の調理(食べ方)や流通問題がクローズアップされるという。

 海面水温の上昇について、「短期」(30年後)は1.0℃、「中期」(50年後)は1.5℃、「長期」(100年後)は3.0℃をそれぞれ見込んでいる。Photo_5気象庁のこれまでのデータを基に算出している。また、対象水産生物34種は①地域的なかたよりがでない②沿岸・沖合・養殖・藻場および干潟など漁場にかたよりがでない③特定海洋生物資源や農林水産統計の対象となっており、水産有用種である---三条件のもとに選んだ。そして、年間最高水温「約29℃」が、温帯性と亜熱帯性海洋生物の生息・分布境界で、この水温線の移動が水産生物に大きく影響していることが判明した。生物は1℃の上昇でも、その影響は大きい。Photo_3

 この水温線、年間最高水温「約29℃」は現在、九州の南方にあるが、温暖化が進むに従って北上し、30年後では日本海側は九州北部、太平洋側は紀伊半島に達し、50年後には中四国沿岸、100年後には関東や北陸沿岸に達する。魚類への影響を予測すると、サバ、カツオ、サンマなどの浮遊類は、漁獲時期や操業期間などに若干の変化が見られるものの遊泳力が強いために影響はPhoto_4軽微で、スケトウダラ、ズワイガニなど底魚類は、水深100m以深の水温上昇がわずかであり影響は現れないという。しかし、沿岸に生息するヒラメ、マダイ、アワビ、ウニなどと、養殖のブリ、フグおよび海藻は、南日本では「短期」(30年後)から大きな影響が出始め減少傾向を示している。将来に向けての早急な対応を指摘している。

 これらの予測は、前提条件を「水温」のみで評価している。温暖化による水産生物への影響は本来、海流などの物理・物質環境や生態系などを考慮して検討する必要があるが、これらは研究途上のものが多い。今回の報告書は、「水温」評価に限定された予測であるが、温暖化による水産生物に対する初めての影響予測である。今後の漁業・水産対策を考える一つのきっかけになり、意義は大きい。 

2007年7月16日 (月)

「鯨捕りよ、語れ!」 C・W ニコル著

Photo_1224  作家、C・Wニコル氏の著書「鯨捕りよ、語れ」が7月に出版され、主な書店に平積みされている。ニコル氏は1940年(昭和15年)英国・南ウェールズ生まれ。1995年(平成7年)に日本国籍を取得し、作家活動に加えてエッセイや講演で環境問題を追求している。著書は、彼が少年時代にカナダに渡り、その後、カナダ政府の<役人>として初めて日本の捕鯨船に乗って鯨捕りとの親Photo_1225交を深め、さらに、南氷洋捕鯨船団に同行した時の鯨捕りの姿を描いたものである。この南氷洋捕鯨船団に私も同行し、一時期、母船でニコル氏と一緒に過した。著書に6枚の写真が掲載されているが、全て私が撮影したものである。奥付に、「写真 斎藤良夫」と記されている。

  1980年(昭和55年)2月5日。ニコル氏は仲積船から捕鯨母船「第三日新丸」に乗船してきた。仲積船は南氷洋で操業中の母船に食糧や手紙などを届け、母船で生産した鯨肉を日本に持って帰る船である。ニコル氏が到着した時、母船は操業の真っ最中だった。私は既に1か月以上も前から母船に滞在し、キャッチャーボートで何回かPhoto_1227捕鯨の現場を取材していた。ニコル氏とは日本を出港前に一度会っており、船団員に代わって私がデッキを案内した。彼は鯨のことは詳しいが、事業員の手際良い解体作業に改めて感心していた。以後の鯨捕りの話は著書に詳しい。私と相棒のカメラマン・大隅利克氏(故人)は2月9日に母船を後にしたので、ニコル氏と過したのは4日間だけだった。それでも、毎日、毎晩のPhoto_1226ように一緒に飲み、彼の話を聞いた。

 「私は海に飛び込むかわりに仕事に飛び込んだ」。著書にも書かれているが、ニコル氏は南氷洋に来た時、奥さん(日本人)との離婚話に悩んでいた。その時の心境を話してくれたのだ。Photo_1228「これが私の全財産です」。彼は手元に残った一冊の分厚いPhoto_1230「ペリー航海記」を持参していた。ポールド(船室の窓)越しに氷山が見え隠れし、そんな雰囲気が、お互いを感傷的な気分にした。生い立ち、カナダでの生活、グリンピース(反捕鯨団体)のこと、鯨捕りへの想Photo_1229い、小説のこと---。彼の問わず語りを、私は黙ってメモしていた。

 ニコル氏が日本の捕鯨存続に尽くした力は大きい。強力な助っ人である。東京・新宿の居酒屋で偶然お会いした時、彼は私の手を握り、涙を浮かべながら25年以上も前の南氷洋捕鯨の思い出話をした。お互いに若かった。「鯨捕りよ、語れ」は、小説風ノンフィクションと銘打っている。しかし、ニコル氏の著書の一行一Photo_1232行が、私にとっても南氷洋生活を思い起こさせてくれる貴重な記録である。自らのヒゲ面が懐かしい。帰国後、読売新聞夕刊に「クジラ最前線~南氷洋の40日~」と題した連載記事(1980.3.21~4 .18)を17回に渡って掲載した。もちろん、ニコル氏のことも触れている。私のホームページのフロント写真「南氷洋の氷山」は、この時に撮ったものである。縁あって私のスナップ写真がニコル氏の著書のお役に立てたことを心より嬉しく思っている。7月17日は、ニコル氏の67歳の誕生日である。

 「鯨捕りよ、語れ」(発行:アートデイズ、定価:1600円+税、ISBN 978-4-86119-089-6)

2007年7月10日 (火)

居酒屋「樽一」会の夕べ

Photo_1210  「今夜は大変格調高いイベントにお誘い頂き、且つ初めての経験で、新鮮で有意義な楽しいひと時を経験させて頂きましたことに感謝いたします---」。9日夜、帰宅したらこんなメールが届いていた。友人からだった。イベントは、東京・歌舞伎町にある居酒屋「樽一」(佐藤慎太郎店主)が9日夕に開いた「第55回樽一会」。旬の魚や野菜・果物に加えて鯨料理などを振舞う年3~4回の樽一料理を楽しむ会。酒は日本酒が中心で、蔵元や杜氏も顔を見せている。友人は日本酒に蘊蓄(うんちく)が深く、彼にぴたりの会と思って誘った。早速の返礼メールに、こちらが恐縮した。Photo_1205

 献立はPhoto_1206---「天然鯛姿造り」の刺身から、「三陸直送保夜酢きゅうり和え」「水なす(京都丸茹子)」、「天然若鮎塩焼(琵琶湖産)」、「鯨の自家製ベーコン」、「まぐろほっぺのレアチーズ和え」、「笹かれい唐揚げ」、「としろ(あわび肝塩干)」「ソーメン」「西瓜」-Photo_1208--まで様々。この日の日本酒は「南部美人」(岩手)、「龍神」(群馬)、「賀茂鶴」(広島)、「浦霞」(宮城)。それぞれの<逸品>(一Photo_1207品)を持ち寄り、酒造会社の社長や関係者が話をした。「龍神」は杜氏が群馬からわざわざ駆けつけた。 樽一会は、近衛道隆氏を名誉会長に、小泉武夫氏と梅崎義人氏の二人が副会長、狩野Photo_1211敏也氏が事務局長を務めている。この日の参加者は約90人。ちなみに会費は女性8000円、男性10,000円である。

 私は樽一に通う回数は少ないが、店とはもう30年以上のお付き合いをしている。樽一が鯨料理を扱っていること、私が読売新聞記者時代に南氷洋捕鯨に同行取材をした<鯨の御縁>による。捕鯨母船で一緒だった作家のC・W ニコル氏は、時々、樽一でマスコミの取材を受けており、偶然お会いして旧交を温めたことも何回かある。先代店主の佐藤孝氏とはIWC(国際捕鯨委員会)京都会議にご一緒したり、よく鯨関係のイベントで顔を合わせた。その先代も今は亡く、7月7日が4回目の祥月命日だった。私は先代の思い出も<肴>にして、久しぶりに会った友人達と歓談した。

 「紅色の玻璃(はり)の盃冷酒の季」(京極杜藻)---第55回樽一会案内の冒頭に添えられていた一句である。

2007年6月17日 (日)

クジラ料理と三味線

Photo_1111  まさか三味線の音をバックにして、クジラ料理を味わえるとは思わなかった。6月16日夕、神奈川県中井町にある博物館「江戸民具街道」(秋澤達雄館長)で、クジラ料理を<肴>(さかな)に、一時を過す集まりがあった。秋澤氏の女婿が東京・築地の水産会社に勤めていて、そこでクジラ やサカナを入手した。「家族だけではもったいない」というわけで、秋澤氏が博物館仲間やジャーナリストら友人・知人10人を呼んだ。部屋は古時計やからくり人形、浮世絵などに囲まれており、蝋燭(ろうそく)も灯されるなど独特な雰囲気。<勇魚>(いさな=クジラの古名)という名前が私の脳裏Photo_1113をよぎった。

 「ベーコン」、「サエズリ」(舌)、「鹿(か)の子」(下あご)、「百尋(ひゃくひろ)」(小腸)、「さらしクジラ」---。クジラと言えば「赤身」の肉が一般的だが、「普段あまり馴染の無いものを用意した」とは女婿氏の話。皿に盛られた品々を一目見た時、ベーコンに吸い付けられた。今では貴重で市販価格も値がはる。これは別のところの情報だが、最近、「本皮」を利用した<皮ベーコン>が開発され、「オーロラ」の商品名で販売されているという。これだと値段がほぼ三分の一ですむらしい。私は個人的に、ベーコンにはそれほど食指が動かないが、値段のことを考えれば、やはり気になった。私は読売新聞記者時代に、商業捕鯨終盤の南氷洋捕鯨に同行取材している。今もクジラ関係者と交流しており、この日、国際捕鯨委員会(IWC)の動向を含めた何点かのクジラ関係の資料を皆さんにお渡しした。Photo_1112

 話題は、もちろんクジラに限ったことではない。東京から駆けつけた元神奈川県立生命の星・地球博物館長、史談会会長、一念発起して今年74歳で定時制高校を卒業した元サラリーマン、現役およびOBの新聞記者ら、それぞれの人生の体験にPhoto_1114基づいた話は奥深い。その中の一人が彫刻家で大学講師のN氏。趣味が三味線と言うが、それも紅檀の手作り。象嵌、螺鈿(らでん)が施されており、半端ではない。この<荷物>のために車でやってきた。で、お酒は飲めない。同情?されつつつ---津軽じょんがら節から瞽女(ごぜ)の曲まで、二つの撥(ばち)を使いわけての演奏に拍手喝さい。背後に揺らめくPhoto_1116蝋燭の灯火が、「プロ級の腕」に幽玄さをかもし出していた。

 N氏は毎朝5時から一時間、自宅(神奈川県二宮町)近くの海岸で練習しているという。これを聴く<常連客>もPhoto_1115多いらしい。二宮町は国府津の隣り町。早起きさえできれば、私も一度は聴いてみたい心境だ。一方、江戸民具街道。江戸から明治の庶民の生活を伝える資料が約5000点も展示されている。秋澤氏は時々、テレビに引っ張り出され、灯火器具の使い方を披露している。照明学会のメンバーも時々訪れている。皆さんには、ぜひ一度、ご覧頂きたい。---クジラは、思わぬ出会いを運んでくれる。

2007年6月15日 (金)

小田原に棲む哺乳動物

  ニホンサル、ニホンシカ、イノシシ、タヌキ、キツネ、アナグマ、イタチ、テン、ハクビシン、ムササビ、ウサギ、ネズミ、モグラ、コウモリ---。日本に棲息(せPhoto_1105いそく)する哺乳動物は58種類。その中で、神奈川県内に34種おり、上述の動物達が小田原に棲(す)んでいるという。6月14日に開かれた「おだわらシルバー大学」の授業「小田原の動物」講座の講師・広谷浩子氏(神奈川県立生命の星・地球博物館=哺乳類担当学芸員)の話である。小田原は山地から岩礁海岸まで豊かな自然に恵まれ、生物も多様だという。博物館発足当初から12年間、小田原の自然を見続けてきPhoto_1106た広谷氏の感想である。そんな動物達にとって、箱根山はバリア(障壁)になっており、箱根山の東と西では種類が違うらしい。例えばモグラ。箱根山の西側は「コウベモグラ」で、東側は「アズマモグラ」と別種だそうだ 。一方で、餌付けの影響で箱根山のサルが小田原の市街地に下りてきており、ニホンシカも分布域を広げている。小田原市は現在、箱根山への<サル追い事業>を実施、また、西湘バイパスにはPhoto_1108「シカに注意」の看板が掲げられている。しかし、広谷氏が言うには、小田原は<イノシシの町>で、サルの被害より始末におえないと強調している。広谷氏は駆除されたイノシシの現場に出向き、博物館に引き取ることもあるが、一頭200Kgもあり、一人ではなかなか手に負えないと嘆いていた。人間と野生動物の共存はのぞましいことではある。とは言え、動物による農作物などへの被害は想像以上に大きい。「有害鳥獣の駆除」。きれいごとではすまされないのが現実である。原因は人間側にあるのが多いのだが---。

 この日、私は広谷氏に会うのを楽しみにしていた。一年前の2006年6月13日、私はミンククジラの胎児標本を博物館に寄贈した。商業捕鯨時代に南氷洋捕鯨に同行取材した。その時、農林水産省(当時)の監督官の許可を受けて、母船に同乗の科学者に胎児をびんにホルマリン保存してもらった。読売新聞時代の話である。異動・転勤などでそのままになり、寄贈先も決まっていなかったが、私がメンバーの「魚(うお)の会」の事務局が神奈川県立生命の星・地球博物館に設置されたことから、「魚の会」のメンバーを経由して博物館に寄贈した。担当が広谷氏だった。

 「貴重な資料を寄贈いただきありがとうございました。標本は、瓶を当館の液沁用のものに交換し、標本は一度洗った後、新しいアルコールを入れた収蔵庫に配架致しまPhoto_25した---」。彼女から丁重な礼状とともに、標本番号が記されていた。その標本が今どうなっているのかを知りたかった。広谷氏の話によると、まだ標本室にあるが、希望すればいつでも観れるという。標本番号は、「KPM-NI003732」(一番大きな固体)、「KPM-NI003733」(中くらいの固体)、「KPM-NI003734」(一番小さな固体)。私は、できるだけ早い機会にクジラ達と<再会>したいと思っている。

 神奈川県立生命の星・地球博物館では年間に50本以上の講座を開いている。夏休みには小中学生対象の講座もいろいろ開かれる。7月21日からは特別展「ナウマンゾウがいた~温暖期の神奈川~」が開催される。皆さん、<クジラ標本>もぜひ観てほしい。

2007年6月 3日 (日)

日本、IWC脱退を示唆

 「堪忍袋の緒が切れた」というのか、「緒を切った」というべきか。米アラスカ州アンカレジで開かれていた国際捕鯨委員会(IWC)の年次総会最終日ので5月31日(日本時間6月1日)、日本政府代表団はIWCからの脱退を示唆した。反捕鯨国との合意形成の可能性がほとんどなくなったためで、「資源管理機関としての役割を取り戻す最後の機会を失った。忍耐も限界だ。脱退や新機関の設立、沿岸小型捕鯨の再開なども考えざるをえなくなる可能性がある」(中前明・水産庁次長)と、初めて<脱退>に言及した。この<脱退発言>を反捕鯨国がどう受け止めるか、また、日本国内の漁業関係者や外交にも微妙な影響を与えそうだ。

 IWC加盟国のうち捕鯨支持国が36、反捕鯨国が41。総会での決議は4分の3以上の賛成が必要。クジラ資源について、捕鯨支持国は「科学的データに基づく持続的利用」を求めているのに対して、反捕鯨国はクジラを水産資源とみなさないで、ただ保護だけを主張している。1982年(昭和57年)の「商業捕鯨の一時停止」(モラトリアム)決議(実施は1986年)以来、日本の科学的調査に基づく<捕鯨再開>への道に通じる提案は、数の原理でことごとく退かれており、IWCは機能不全に陥っている。こうした状態から、日本国内の関係者から「脱退」を求める声が以前からあがっていた。しかし、他の漁業への影響や、電気製品など日本製品ボイコットを心配する動きを配慮して、捕鯨関係者はIWCに留まって「体制内での改革」を目指して、20年以上にわたり地道な努力を続けてきた。

 しかし、そんな努力と関係なく、マグロの捕獲規制が強化されるなどの国際規制が多方面に及んできた。つまり、クジラ問題とは別の次元で国際規制が進んでいるのだ。とは言え、捕鯨関係者は「無用な対立を助長したくない」と、今年のアンカレッジ会議では、「沿岸小型捕鯨枠の要求」提案を自主的に取り下げた。総会では86年から実施されているモラトリアム支持決議が賛成37、反対4、棄権1の賛成多数で採択されたが、日本を含む捕鯨支持国26か国は投票に参加しなかった。昨年のセントキッツ・ネービス会議では、「モラトリアムは必要ない」という捕鯨支持国の提案が一票差で採択されたのだが---。予想通り、アンカレッジ会議では反捕鯨国側が巻き返したのだ---。

 日本国内でIWC総会は過去2回、京都と下関で開催されている。2009年の総会開催地として横浜市は昨年立候補を表明していた。しかし、中田宏市長はアンカレッジ会議で立候補辞退を明らかにした。横浜の開港は、米国が捕鯨船の物資補給のために、日本に開国を迫ったのがきっかけだった。09年は開港150周年の記念の年にあたる。市長は「政府の対応と矛盾しないよう、開催地として名乗りを上げることは不適当と考えた。IWCの状況が改善したら、横浜開催を検討したい」とコメントしている。

 日本は「脱退」を示唆したものの、直ぐに行動に移すつもりはないようである。総会では、「日本の調査捕鯨船に対する環境団体の過激な抗議行動を加盟国の国内法で規制する」提案や、「IWC正常化への方策を話し合う会合を次回総会前に開く」提案が採択されている。日本は「今後の議論を注意深く見守る」方針だが、その政府の対応を、また我々も「注意深く見守りたい」---。

2007年5月10日 (木)

「捕鯨の伝統と食文化を守る会」

Photo_968  45分遅れて「憲政記念館」(東京・国会議事堂前)に着いた。「捕鯨の伝統と食文化を守る会」(略称=食文化の会)が5月9日午後5時30分~7時まで開かれた。国際捕鯨委員会(IWC)総会を前に毎年開催されている。今年の第59回IWC年次総会の日程は5月28日~31日までで、開催地は米国アラスカ州のアンカレジ。食文化の会はIWC総会に臨む日本政府代表団を激励する会Photo_962でもあり、今年、20回目を迎えた。会場にはクジラ料理がずらりと並ぶ。私が到着した午後6時15分頃には帰路につく人もいた。文教大学(湘南キャンパス)の授業(午後3時~4時30分)を終え、大学→JR茅ヶ崎駅→JR有楽町駅→憲政記念館へと、バスと電車とタクシーを乗り継いできた。会場は混雑しており、皆さん、盛んにクジラ料理に舌鼓を打っていた。私は写Photo_966真撮影や友人・知人への挨拶もそこそこに、クジラ鍋からハリハリうどんへと箸を運んだ。事務局の話によると、この日の参加者は延べ800人以上という。

 食文化の会開催前に、自民党の「捕鯨議員連盟」の衆院議員をはじめ民主党、公明党、共産党、社民党の各党代表の国会議員による「ミーティング」が行われる。「第20次南極海鯨類捕獲調査」では、過激な反捕鯨団体「シーシェパード」による妨害に遭い、調査母船「日新丸」をはじめとする調査団・乗組員の人命に関わる危険な攻撃にさらされた。その後、母船で火災が発Photo_967生し、調査を中断した。「日新丸」は自力航行で3月23日に東京に帰港し、現在、次の「北西太平洋鯨類捕獲調査」に向けて修理を行っている。食文化の会の開催冒頭で、自民党の鈴木俊一・衆院議員は「今はそれぞれの文化を認める時代。捕鯨をやめろという理不尽な反捕鯨国対して、日本人として、はっきりNO!と言おう」と、捕鯨再開へ向けて国民に対する一層の団結を訴えた。メモをとっていた水産ジャーナリストの話である。

 会場に並Photo_964んだクジラ料理は、刺身、くじら鍋、くじらご飯、竜田揚げ、さらし尾羽鯨、西京漬ステーキ、メンチカツドック、串カツ、はりはりうどん---等々。全国にまたがる「クジラ料理を伝える会」(会長=「徳家」大西睦子氏)加盟の49店の内、北海道の「おばんざいくじら亭」から熊本の「鯨料理 ゆう」まで12店の名物料理が用意された。私は顔見 知りの各店の店主に挨拶。特に、昨年11月に大阪に行った時に会えなかった「徳家Photo_963Photo_965将の大西氏と久しぶりに会い、はりはりうどんを手にしながらおおいに歓談した。落語家の林家木久蔵師匠は、参加者の求めに応じて何回も記念撮影におさまっていた。相変わらずの人気である。木久蔵師匠は「クジラ食文化を守る会」(会長=小泉武夫・東京農大教授)のメンバーである。会場が憲政記念館とあって、毎回、党派を超えて多くの国会議員が顔を見せている。今年はその人数が約50人という。

 昨年のIWC「セントキッツ会議」では、捕鯨容認国が過半数を制する<画期的>な会議となった。今年の「アンカレジ会議」は、その反動から反捕鯨国側の強い巻き返しが予想されている。鈴木俊一議員の話のように、<国益>を守るために日本政府代表団の健闘を期待したい。その激励のためには、皆が一緒になって、捕鯨へのさらなる理解を深めることである。

2007年4月 2日 (月)

バタオネ先生への感謝会

Photo_798  「Kasih kami di Jepang selalu bersama Bapak Bataone」(日本の私達の愛はバタオネ先生といつまでも)----記念品として贈られた時計の裏面に刻まれた日本人教え子達のメッセージである。インPhoto_781ドネシア語講師、ドミニクス・バタオネ(Dominicus BATAONE)先への感謝会が4月1日午前11時から東京・赤坂にあるインドネシアンレストラン「ジュンPhoto_782バタン・メラ」(赤い 橋)で開かれた。日本人をはじめ外国人に対するインドネシア語の講師として在日30年。故国へに帰ることになり、10日に離日する。「感謝の会」は、バタオネ先生が所属するINJカルチャーセンター( 近藤由美社長)の主催で、これまでの教え子やインドネシア大使館員、友人、4_1知人ら100人余が集まPhoto_786り、それぞれがバタオネ先生との別れを惜しんだ。

 バタ オネ先生の授業は、厳しいことで知られている。それだけに「恐い先生」というのが教え子達の共通語である。Photo_787ある女性の受講生は述懐していた。「最初、教室が狭いので次回から広い教室をお願いしよう---と話したら、先生は『大丈夫です。次から(受講生は)半分になりますから』Photo_797と言った。翌週、その通りになった」と。そして、「語学を習うには、それくらいの厳しい指導を受けなければ習得できないんだ」と感想を述べていた。会場には、Photo_791ビデオ映像が流れていた。「海と川の狩人たち~灼熱の海にクジラを追う~インドネシア・レンバタ島」。NHKスペシャルとして1992年1月19日に放映さPhoto_794れたものである。バタオネ先生は、この<クジラの 島>のラマレラ村の出身。これを撮った(有)蓮ユニバース監督の池谷薫氏は、「バタオネ先生がいなかったら決して撮影できなかった」と、当時を思い出しながら先生に改めてPhoto_793感謝していた。

 この映像は大きな反響を呼び、インドネシアを観光とは 違った意味で日本人を引き寄せ、その後もPhoto_792、<クジラの島>は雑誌に、映像にと相次いで紹介された。バタオネ先生はその都度、取材の便宜を図ってやっていた。私と先生の縁も、このクジラが深くかかわっており、一緒にクジラ料理を食したこともある。1日に久しぶりにお会いしたわけだが、私を、名前よりも「クジラ」ということで直ぐに思い出してくれた。INJのスタッフの一人は、最近も先生がクジラの話をしていたと、と伝えてくれた。

 感謝の会は全てINJのスタッフ達(女性陣)によって進められた。歌の披Photo_790露とともに、インドネPhoto_789シアでは馴染の「RASA SAYANGE」を全員で合唱した。バタオネ先生は御夫妻で出席され、あちらこちらで記念写真に納まっていた。正直、ゆっくりと話す時間がなく、先生の日本についての話をじっくりと聞けなかったのが残念だった。 しかし、INJと縁が切れたわけではなく、時Photo_795々来日するというから、これからもお会いするチャンスはある。記念品を受け取り、挨拶に立ったバタオネ先生は、「私は大変な恥ずかしがりやで、長くはしゃべれません---」と言って在日中に世話になった方々の名前をPhoto_796あげてお礼を述べ、こう 結んだ。「サヨウナラは言いたくない。また、お会いしましょう」。帽子にサングラス姿。サングラスは「涙を隠すためにかけたみたいです」とは司会者の言葉。

 バタオネ先生は今年75歳。在日歴の長い外国人は、その振る舞いが日本人以上に、日本人らしい。それも昔の良き日本人。バタオネ先生はその一人である。先生のご長命を心よりお祈りしたい。

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