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Mukha

フォト

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2007年7月31日 (火)

フレーム切手 小田原

Photo_6  「小田原」という名入りの切手はついつい買ってしまう。30日に、小田原市の代表的景観10か所をデザインしたオリジナルフレーム切手シート(80円切手×10枚=800円)1部を手に入れた。名付けて「心におみやげ、見つけて小田原」。日本郵政公社南関東支社が7月2日に3000部を発行したもので1部1200円。切手総額より400円高い。市内所在の郵便局25局で9月28日まで販売されるが、売り切れしだいお仕舞で、再発行はしないという。

 デザインされた景観10か所は、①小田原ちょうちん夏まつり②長興山紹太寺のしだれ桜③小田原城銅門④曽我の傘焼まつり⑤小田原城⑥曽我梅林⑦二宮尊徳生家⑧生命の星地球博物館⑨小田原文学館⑩御感の藤---。シートにはそれぞれの解説を載せた用紙が添付されている。このシートについては発行後間もなく知ったが、郵便局へ行く機会がなく延び延びになっていた。この日、私が非常勤講師を務めている文教大学に書類を郵送するために訪れた小田原東郵便局で手に入れた。まだ、500部以上残っているという。

 それにしても、オリジナルフレーム切手シートの種類の多さに驚く。「日本の名城五十選」、「湘南の風物詩」、「情緒豊かな港町 真鶴」、「ようこそ箱根に--Welcome to Hakone--」等々、枚挙に、いとまがない。切手収集家は大変だなぁ、などとつまらぬことを考えてしまった。私はよく手紙を出すので、かなりの切手やはがきを常備している。シートをどのように使うか、切手を切り離すか、それとも記念として切手シートごとプレゼントするか。近く、小田原城の関係者に会う予定があり、多分、その方へのプレゼントになるかもしれない。

2007年7月30日 (月)

ふるさとの先人に学ぶ---

Photo_2  上杉鷹山(山形県米沢市)、大島高任(岩手県釜石市)、二宮尊徳(神奈川県小田原市)、佐久間象山(長野県長野市)、前田利長(富山県高岡市)、細井平洲(愛知県東海市)、中江藤樹(滋賀県高島市)、佐藤一斎(岐阜県恵那市)、山田方谷(岡山県高梁市)、伊達宗城(愛媛県宇和島市)、雨森芳洲(長崎県対馬市)、多久茂文(佐賀県多久市)、広瀬武夫(大分県竹田市)---。

 「ふるさと先人交流・講演会」が7月29日、小田原市生涯学習センター「けやき」ホールで開かれた。集まったのは上記13市の市長・自治体関係者。先人の知恵、学識を学び、「21世紀のまちづくり」、「人づくり」、「心そだて」に役立てようというもの。東海市(鈴木淳雄市長)の主催で、「嚶鳴(おうめい)フォーラム=市長サミット」が28日に東京・ANAインターコンチネPhoto_3ンタルホテル東京で開かれ、小田原での講演会はフォーラムの関連。「嚶鳴」とは、鳥が仲間を求めて鳴き交うという意味で、転じて、仲間を求めて切磋琢磨しながらともに学び成長する姿を表すという。フォーラムの名前は江戸時代の教育者、細井平洲が開いた「嚶鳴塾」から付けられた。東海市にある「平洲記念館」(立松彰館長)の名誉館長で作家の童門冬二氏がコーディネーターを務めた。Photo_5

 最初に列記した13人の先人の名前全員を、私は浅学にして知らない。恥ずかしながら、初めて聞く方もいる。フォーラム協賛の全日空の会長・大橋洋治氏が講演した「山田方谷」もその一人だった。大橋氏は社長時代に会社の方針を立てる時に、ふるさとの先人で儒学者、「山田方谷」の「至誠惻怛」(しせいそくだつ)の教えを取り入れたという。「まことを尽くし、人を思いやる心Photo_4」のことである。童門冬二氏は二宮尊徳の話をした。共に自らの人生の転機に、先人の教訓を活かしたわけだが、実体験だけに話に深みがあった。

 私がフォーラムに顔をみせた目的は、講演の拝聴とともに、「平洲記念館」の館長・立松彰氏に会うためだった。立松氏は私が読売新聞名古屋総局(当時・現中部支社)のデスク時代からの友人で、同じ日本展示学会のメンバー。フォーラム後に、久しぶりに一杯と思った。しかし、東海市から参加したフォーラムツアー十数人の責任者として自由行動は叶わず、会場だけでの短時間の話で終わってしまった。残念ではあったが仕方がない。この日は参院選の投票日と重なってしまい関係者は聴衆の数を心配していた。300人近くはいたのではないか。童門氏は壇上に黒板を置いての講演。今年80歳というが、身のこなしは軽やかで、とても歳には見えない。話も軽妙洒脱で聞く者を飽きさせなかった。私は氏の著書を何冊も読んでいるが、話を聞くのは初めて。遠い昔の先人に学ぶより、むしろ、目の前の童門氏に学ぶ思いだった。

2007年7月29日 (日)

「交番の日」 神奈川

Photo  神奈川県警は毎月27日を「交番の日」に指定し、より安全な地域づくりを目指しているそうだ。町中の散歩していて、「交番の日」の看板を初めて目にした。県警のホームページによると、平成6年(1994年)6月27日から実施しているという。私は小田原市国府津の自宅にいる時は、ほぼ毎日のように散歩をしており交番の前を通り、時たまではあるが立ち寄ることもある。看板に気が付かなかったのは、よほどタイミングが悪かったのだろう。

 その日は、①できるだけ多くの制服警察官を交番に配置しての警戒活動の強化②交番新設要望地区での臨時交番の開設Photoやパトロールの強化③地域ボランティアの方々との合同パトロール活動の強化④地域安全の各種キャンペーンの実施---を行うことにしているようだ。「交番の日」の由来は、明治4年(1871年)11月27日に「神奈川県治条例」が制定にさかのぼる。その時に「邏卒課」(らそつか)が設置され、課の規則を定めた「邏卒職務規則」の中に「交番」という用語が使われた。この「邏卒課」が設置された27日にちなんで、毎月27日を「交番の日」にしたという。「邏」とは、「めぐる」とも読み、見まわる、巡察するなどの意味。今はあるかどうか確認していないが、私が新聞記者時代は、警察に「警ら(邏)」という言葉があった。

 看板を写真に撮った時、交番に人影はなかった。奥の<事務所>と呼ぶのか「控え室」と呼ぶのか、そこには誰かが居たかもしれない。常駐者はいるのだろうか。「市内の交番勤務の警察官をやりくりして、勤務体制を組んでいる」と聞かされたことがある。だから、地元の地理に不案内な警察官が多い。事件・事故の発生に比べて人手不足であることは間違いない。「できるだけ多くの制服警察官を交番に配置しての警戒活動の強化」と謳(うた)っているが、スローガン通りには難しいのではないか。同情を禁じえない。

2007年7月28日 (土)

振り込め詐欺対策?

 なんと5000万円も !  振り込め詐欺の被害金額である。5000万円ですよ。最近の東京でのニュースである。例によって、息子を名乗Photoり、不祥事の<賠償金>を親から出してもらう手 口である。何回にもわたり高額を振り込む被害者に対して、銀行側は注意を促したが、被害者は<息子の不祥事>?を話すのがいやでそのまま振り込みを続けた。改めて息子に電話をしたが連絡がとれなかったという。どうして詐欺とわかったかは、ニュースは触れていなかった。小田原市の「安心・安全メール」が、改めて、振り込め詐欺への注意を伝えてきた。

 小田原市暮らし安全課です。(神奈川県警察本部生活安全総務課からの情報)
 「本年6月末現在、振り込め詐欺の発生総件数は、昨年同時期より減少しています。しかし、本年4月以降、それぞれの月で昨年よりも増加している状況にあります。今後とも、電話で金銭の振り込み要求があった場合には、すぐに振り込むことなく、必ず家族や警察に相談をしてください。また、普段から振り込め詐欺の被害に遭わないための確認方法等について、家族と話し合う機会を作るよう心がけてください」。

 「テレビ神奈川「コンシェルジュ神奈川」では、7月29日(日)午前9時40分ころから、「振り込め詐欺の被害防止対策について」の放映を予定していますので、参考としてください(この内容については、1週間後に、神奈川県のホームページ「インターネット放送局」で見ることができます)」。

 担当生活安全対策室・森川 電話045-211-1212(内線3053 )。

 [振り込め詐欺](ふりこめさぎ)は、電話やはがきなどの文書などで相手をだまし、金銭の振り込みを要求する犯罪行為である、詐欺事件の総称として警察庁が使用を決めた名称。従来、「オレオレ詐欺」(別名「なりすまし詐欺」)や「架空請求詐欺」、「融資保証金詐欺」などと呼ばれていたが、手口の多様化で名称と実態が合わなくなったため、2004年12月9日に、警察庁によって統一名称として「振り込め詐欺」と呼ぶことが決定された。(「ウイッキペディア」より)

2007年7月27日 (金)

車イスと身体拘束

Photo_6  車イス体験者が意外に少なかったことに、ちょっと驚いた。「平成19年度おだわらシルバー大学」歴史観光コース3学年の前期授業が7月26日に終了した。授業は毎週木曜日に小田原市川東タウンセンター「マロニエ」での教室授業と野外でのガイド実習・フィールドワークなど4月28日~2008年3月まで40回(一回2時間)の学習日程が組まれている。前期最終授業は「介護」についてで、我々3年生(25人)と2年生(31人)との合同授Photo_7業だった。講義の後に「車イス介助法」の実習が行われた。受講生の中で<車イス体験者>は10人足らずで手に触れるのも初めてという方も多かった。これに、私は少なからず驚いたのだ。また、車イスを利用する要介護者に安全ベルトを原則としてしない、というのも意外だった。介護保険制度のもとで、身体の自由を奪う「身体拘束」の禁止によるものだという。

 シルバー大学Photo_8は、いわゆる<老人大学>で、受講生の年齢は全員60歳以上。程度の差こそあれ、ほとんどが「老々介護」の体験者であり、車イス利用もその延長線にあり、誰もが一、二回は経験していると思っていた。身体障害者、病人にも車イスが必要だ。私は家族が病気になった時に車イスを借り、その後に購入した。読売・日本テレビ文化センター時代に、かなりの規模の「介護講座」を企画した。「門前の小僧---何とか」で、拙(つたな)いながらも、真似事はした。小田原市社会福祉協議会の講師の指導を受けなが3ら、車イスを動かすシルバー大学受講生のおぼつかない手つきを見ながら、私は笑うというより、むしろ、うらやましく思った。彼らはこれまで、車イス体験をしなくてすんだ生活を送ってきた証(あか)しであるからだ。

 安全ベルト。車イスは今、わが家にない。利用する者がいなくなってしまったからだ。外出時など、家族が車イスを利用する時にベルトをしたであろうか。記憶の彼方ではあるが、毎回ではないがベルトを使ったと思う。---私はこんなことを目撃した。小田原市国府津にある食堂で、車イスのまま食事をした老婦人が帰りに出口で、車イスから転げ落ちた。もちろん介助者はいた。出口に段差があった。本来なら後ろ向きに降りるべきだ。介助者は段差を知ってか知らずか、車イスを直進させた。老婦人は幸い大事に至らなかった。

 身体拘束問題は、高齢者らに対する施設の安易な姿勢から起きている。点滴を引き抜かないようにベッドの柵に手をしばる。おむつをはずせないように拘束衣を着せる、その他数々---による。本人や家族に与える精神的ダメージとともに介護施設に対する社会不信を招いており、厚生労働省は「身体拘束ゼロへの手引き」という小冊子を出すほど、身体拘束が社会問題化した。もちろん、こんなことがあってはならない。施設や業者が介助者になっての車イスのベルト使用は、「本人、家族の了解を得たうえで許される」のが現状という。

 「縛(しば)る」ことは断じて許されない。自動車には安全ベルトの着用が義務付けられている。車イスのベルト着用を、この感覚で行ったらどうであろうか。安全のためである。---「えっ! それは甘い考えだ ?」。「悪質な身体拘束を続けている施設を、安全の名のもとに、拘束をのさばらせることになる---」。

2007年7月26日 (木)

温暖化 魚介類への影響は?

Photo  調査対象34種の水産生物は海域を移動し、漁獲高の減少は予測されるものの獲れなくなることはない。しかし、「養殖」はかなり厳しい状況に追い込まれる---。「水産ジャーナリストの会」(梅崎義人会長)の7月研究会が24日午後6時から東京・虎ノ門の大日本水産会8階大会議室で開かれた。今回のテーマは「温暖化による我Photo_2が国水産生物の分布域の変化予測」。(社)国際環境研究会の資料解説で、講師はメンバーの一員・(株)東京久栄環境科学部長の小林聰氏。既に亜熱帯性の魚が北上しており、今後はこの種の魚の調理(食べ方)や流通問題がクローズアップされるという。

 海面水温の上昇について、「短期」(30年後)は1.0℃、「中期」(50年後)は1.5℃、「長期」(100年後)は3.0℃をそれぞれ見込んでいる。Photo_5気象庁のこれまでのデータを基に算出している。また、対象水産生物34種は①地域的なかたよりがでない②沿岸・沖合・養殖・藻場および干潟など漁場にかたよりがでない③特定海洋生物資源や農林水産統計の対象となっており、水産有用種である---三条件のもとに選んだ。そして、年間最高水温「約29℃」が、温帯性と亜熱帯性海洋生物の生息・分布境界で、この水温線の移動が水産生物に大きく影響していることが判明した。生物は1℃の上昇でも、その影響は大きい。Photo_3

 この水温線、年間最高水温「約29℃」は現在、九州の南方にあるが、温暖化が進むに従って北上し、30年後では日本海側は九州北部、太平洋側は紀伊半島に達し、50年後には中四国沿岸、100年後には関東や北陸沿岸に達する。魚類への影響を予測すると、サバ、カツオ、サンマなどの浮遊類は、漁獲時期や操業期間などに若干の変化が見られるものの遊泳力が強いために影響はPhoto_4軽微で、スケトウダラ、ズワイガニなど底魚類は、水深100m以深の水温上昇がわずかであり影響は現れないという。しかし、沿岸に生息するヒラメ、マダイ、アワビ、ウニなどと、養殖のブリ、フグおよび海藻は、南日本では「短期」(30年後)から大きな影響が出始め減少傾向を示している。将来に向けての早急な対応を指摘している。

 これらの予測は、前提条件を「水温」のみで評価している。温暖化による水産生物への影響は本来、海流などの物理・物質環境や生態系などを考慮して検討する必要があるが、これらは研究途上のものが多い。今回の報告書は、「水温」評価に限定された予測であるが、温暖化による水産生物に対する初めての影響予測である。今後の漁業・水産対策を考える一つのきっかけになり、意義は大きい。 

2007年7月25日 (水)

<小田原直下型> 地震

 少し横揺れがあって、ズズッツ、ドンと腹に響く音とともに身体が押し上げられる感じだった。<神奈川県西部地震>---正式には名称はない。「24日午前11時38分ころ地震がありました。震源地は神奈川県西部(北緯35.3°、東経Photo139.1°)で、震源の深さは約10km、地震の規模(マグニチュード)は4.4と推定されます」。気象庁地震火山部が午前11時47分 に発表した地震情報である。震度は最大「3」で、震源地直近の小田原市久野、同荻窪などの小田原市内各地と、相模原市、南足柄市、山梨県大月市などだった。

 私はその時、小田原市鴨宮の「小田原市川東タウンセンター・マロニエ」の教室にいた。「おだわらシルバー大学」の民俗学の授業の最中で、ビデオを鑑賞中だった。教室には私達、「歴史観光コース3年生」と「同1年生」の計約50人がいた。地震は間もなく治まり特に混乱はなかったが、「とうとう来たか」と叫ぶ者がいるなど、全員が一瞬とはいえ大きな不安に包まれたことは言うまでもない。神奈川県西部地区に、地震がいつ来てもおかしくない、と言われている。時々、地震があるが、震度の差はあれ震源地は伊豆沖などである。つまり、直下型は珍しい。

 私の自宅は「川東タウンセンター」からほど近い小田原市国府津にある。自宅番地の「緯度は北緯35.16°、東経139.12°」である。震源地とほぼ同じだ。<小田原直下型>どころか、極端に言えば、<自宅直下型>の地震である。震源地が小田原であり、防災無線で放送されていたにもかかわらず、この地震に気付かなかった人もいる。規模が小さく、一瞬であったことにもよる。まさに、不幸中の幸いである。新潟県・中越沖地震の被害は日が経つごとに拡大している。他にもたらす影響も大きく、決してひとごとではない。

 授業を受けていた「小田原市川東タウンセンター・マロニエ」は市の施設で、万一の場合の避難場所でもある。そこに居れば<安心>かもしれない。友人達の「地震対策」を聞いてみたが、非常用の飲料水、食糧を常備している者は意外に少なかった。私もその一人である。「喉もと過ぎれば熱さを忘れる」の喩えが、耳に痛い。

2007年7月24日 (火)

石工の撮った狛犬

Photo_5  迫力ある狛犬だ。阿像は左後足を少し折り曲げて、つま先を足座からはみ出して台座を蹴っている。いまにも走りだすというか、襲いかかるようで、実に生々しい---。岐阜県高山市にある村上神社の狛犬である。友人の石工で、愛知県岡崎市に在住の綱川誠志郎氏が高山旅行の時に撮影したものだ。近況を伝える久しぶりのメールに添付されていた。その数8枚。さすがにプロ、目の付けどころが違う。

 「早いもので斎藤さんとお会いしてからもう、一年経ちました。いつもブログを拝見しているので斎藤さんの事は手に取るように分かっていますょ。先日、高山に旅行した時に中々個性的で良い出来の狛犬があったのでお知らせします。平湯温泉の近くにあった村上神社の狛犬です。大きさは高さ75cm、長さ90cm、奥行き45cm。石はシャクタニ石に似た柔らPhoto_7かさそうな石でした。形は今まで見た事もPhoto_8無いはじめてみる形で出来はとても良いです。こっちに来る用事があれば是非連絡してください。久しぶりにお会いしたいものです」(22日午後10時30分着信)

 綱川氏の自宅と工房は隣接しており、庭先に作品の石仏や動物などの石造が置かれている。「日本参道狛犬研究会」(略称=狛研)のメンバーで、狛研のメンバーが東京・品川神社に奉納した狛犬の作者でもある。昨年夏、綱川氏は私の住む神奈川県小田原市を訪れ、私と一緒に周辺の狛犬探訪をした。彼の観る目は先ず形、そして彫り方。プロらしくクールで客観的な見方をしており、めったに感情を表面にあらわさない。今回のように、わざわざ写真まで送ってくるほどだから、村上神社の狛犬にはよほど感動したのだろう。

 写真を見ながら、また、綱川氏と一緒に狛犬探訪がしたくなった。

2007年7月23日 (月)

発火の恐れ DVDプレーヤー

Photo  「---さて、弊社が販売しておりますポータブルDVDプレーヤーの一部商品にて、稀ではありますが、使用中に液晶画面のフレーム部分が高熱により変形や発煙に至った事例が発生し、発火に至る可能性のあることから、お客様の安全を期するため当該商品並びに、同様に液晶画面に有する商品を自主回収させていただくことを決定致しました。尚、購入代金につきましては弊社にて返金手続きをとらせて頂きます。大変ご迷惑とお手数をお掛け致しますが、下記商品をお持ちのお客様は、直ちにご使用を中止していただき、メーカー窓口(0120-181-655)までご連絡いただきますよう、よろしくお願い申し上げます---」(長瀬産業株式会社新規事Photo_2業開発室)。

 株式会社「ジャパネットたかた」(長崎県佐世保市)から、「長瀬産業株式会社新規事業開発室」の文書を同封した手紙が届いた。私が、テレビショッピングで購入したポータブルDVDプPhoto_4レーヤーが、<欠陥対象製品>というのだ。販売が「ジャパネットたかた」で、製造会社が長瀬産業株式会社というわけだ。「ポータブルDVDプレーヤーをお買い上げのお客様へ」という上記の文章とともに、対象製品の一覧が明記されていた。「ポータブルDVDプレーヤー」(Photo_3販売期間:平成15年6月~)が23機種、「液晶テレビ+DVDプレーヤー」(同平成17年1月~平成18年9月)が1機種、「デジタル写真立て」(同平成19年1月~)が1機種。

 私がこの手紙のことを友人・知人に話したら、ポータブルDVDプレーヤーではないが、自動車のリコール2件と冷蔵庫修理1件の話が出てきた。自動車についての1件は、関係部署に電話したら「混んでいるので待ってほしい」とそのままになっている。もう1件は、製造会社から連絡が入ったが販売店からはナシのつぶて。「売りっぱなしで誠意がない」と怒りをぶつけられた販売店が、やっと重い腰をあげて友人宅に伺うことになったという。冷蔵庫は、電話を受けた電気製品販売店が直ぐに駆けつけて直したという。

 欠陥電気製品について、私の体験の一つに「電気毛布」がある。数十年前のことだ。夜、寝ている最中に焦げ臭いにおいがして飛び起きた。製造会社の関係者が直ぐに来たのは言うまでもない。確か総務と技術担当者で、その雰囲気は、「お詫び」というより、「何故、起きたか」という関心が関係者に高かった気がする。新製品は開発途上という印象を受けた。今回の件について、私はまだ電話をしていない。数か月前に現金着払いで買ったが、書類はどこへ行ったか不明だ。現物を送ればすむことではあるが、対象製品の一覧表を見ていて、モノによったら「プレゼント」に使われているのではないかと思った。自動車や冷蔵庫はさておき、この程度のモノなら「入学祝い」や「結婚祝い」に贈られているかもしれない。事実、私は、対象製品とは別会社のポータブルDVDプレーヤー(ワンセグTV受信可能)を東京の知人へ贈っている。

 手紙の文言ではないが、欠陥商品は本当に「迷惑」な話で、返品その他でかなりの「手数」がかかりそうだ。

2007年7月22日 (日)

東海道線開業120周年

Photo_1255 東海道線「横浜-国府津」間が開業して7月11日に120周年を迎えた。これを記念してJR東日本(東日本旅客鉄道株式会社)は、E217系3編成に「記念ヘッドマーク」を付けて7月9日~9月30日まで走らせるほか、数々の記念イベントを展開している。小田原市国府津商工振興会(奥津弘高会長)は、JR「国府津駅」構内に往時の国府津駅舎や蒸気機関車、列車ダイヤなど約30点の写真を展示してイベントに協力している。Photo_1251

 東海道線は明治5年(1872年)10月14日に「新橋-横浜(現・桜木町)」間に開業した。わが国で最初の鉄道である。次いで明治20年(1887年)7月11日に「横浜-国府津」間が開業して保土Photo_1252ヶ谷、戸塚、藤沢、平塚、大磯、国府津の6駅が誕生した。そして、明治22年(1889年)7月1日に全線(新橋-神戸)が開通した。現在の東海道線の起点・東京駅は大正3年(1914年)12月20日の開業である。保土ヶ谷駅は昭和55年(1980年)10月1日に東海道線と横須賀線の運転線路を分けたのに伴い、横須賀線の停車駅として今日に至っている。平成13年(2001年)12月1日には「湘南新宿ライン」が誕生し、東海道線・横須賀線かPhoto_1254ら新宿経由で宇都宮線・高崎線に直通する新たな歴史を刻んだ。(東海道線開業120周年チラシ「東海道線、むかし、いま」より)

 私は、記念ヘッドマークを付けた電車に偶然乗り合わせ、マークの写真を撮った。電車の写真を撮るのは何年ぶり、いや数十年ぶりかもしれない。「湘南電車パン」「記念弁当」「記念そば・うどん」などの販売(7月24日まで)、スタンプラリー(同)、E217系車両などが展示される「鎌倉車両センター」の公開(7月29日)、園児が鉄道をテーマに描いた「こども絵画展」(8月31日まで)などイベントは盛りだくさんだ。10月~12月にかけては、横浜駅周辺と、平塚-国府津間のウォーキングも予定されている。鉄道、電車、乗り物は子ども達に夢を与え、大人達を童心にかえらせてくれる---。問い合せは、JR東日本横浜支社(電話045-320-2033)へ。

2007年7月21日 (土)

「お施餓鬼」 法秀寺

Photo_1243  仏教行事「施餓鬼会」(せがきえ)が20日午前11時から小田原市国府津の法秀寺(鈴木妙英住職)で行われた。「施餓鬼」とは文字通り「餓鬼に施す」ことで、「餓鬼」は六道(天上、修羅、人間、畜生、餓鬼、地獄)のうち、餓鬼道に落ちて苦しんでいる亡者のこと。口にするPhoto_1246ものは炎と化し、自分では何一つ食べることができない。この苦しみから抜Photo_1244け出すことができない餓鬼に食べ物を施すのが「施餓鬼供養」といわれる。施餓鬼とは言うものの、一言でいえば<先祖供養>でもあろう。故人が生前できなかった「善行」を遺された者があとから「追って」代わりに行う、まさに<先祖追善供養>である。詳細は仏教書Photo_1247に譲るとして、私が興味を持つのは祭壇の飾りつけ。野菜や果物などが見事にアPhoto_1245レンジされている。いつ見ても感心する。

 法秀寺では「浜施餓鬼」も行う。相模湾が近く、水難者から魚類の供養まで行う。場所は本堂の中で、浜まで下りては行かない。そこで、私が思い出し、記事にしたことがあるのが、東京・隅田川での「川施餓鬼」である。船を仕立てて川面で行う施餓鬼供養はPhoto_1248、夏の風物詩ともいえる。

 施餓鬼供養は特に時期を選ばないが、法秀寺ではお盆前に行い、施餓鬼を行わない浄土真宗を除く他の寺院の多くは秋に実施している。また、禅宗の生食(サバ)という、食事のたびに飯を数粒施す習慣も、施餓鬼の一作法だそうだ。仏教行事は信仰に基づいて行われるのは当然だが、文化的視点から眺めると、また、違った興味がわいてくる。

  父と母 信士信女や 盆施餓鬼(塚本青曜)

 施餓鬼寺 駄菓子袋に 子が走る(松原三枝子)

2007年7月20日 (金)

いよいよ「バス進入路」掘削

  H_3 JR東海道線「国府津駅」前の広場整備に伴う、バス進入路専用路線の本格的掘削工事が18日から始まった。バス進入路は、東海道沿いのガケをぶち抜いて広場に達する急勾配の道路。バス一台がやっと通れる幅。数日前から資材置き場となるバックヤードに鉄板を敷き詰めたが、休日や台風が重なり、18日からH鋼材の杭打ちを始めた。H_2

 現場Photo_1240は、マンションと喫茶店・民家の間の敷地(道路)。ほとんど通行人はいないが、周囲に立ち入り禁止、通行止めの柵をした。「ご近所の皆さんへ」と書かれた一週間の作業日 程を見ると、18日(水)「山留材料搬入。H鋼杭打込」、19日「H鋼杭打込」、20日「同」、21日「同」、22日(日)「休工」、23日「バックPhoto_1238ホウ搬入、掘削、残土搬出」、24日「掘削、残土搬出、山留工」---となっている。民家や喫茶店脇を掘るためPhoto_1242の「よう壁」造りである。

 工事の予定は10月18日までの3か月間。工事の時間は昼間が午前9時~午後5時、夜間が午後9時~午前5時。現場直近の民Photo_1239家やマンション住民とどのような話が交わされているか私には不明だが、騒音、振動の問題もあり、果たして夜間工事はどのように実施されるのだろうか。工事発注者は小田原市都市部まちづくり景観課(電話0465-33-1595)、施工者は地元の天野建材工業株式会社(電話0465-42-3636)。

2007年7月19日 (木)

「宇宙をつかむ」 JAXA一般公開

Photo_1236  宇宙航空研究開発機構(JAXA)と宇宙科学研究本部(ISAS)は7月21日(土)、神奈川県・相模原キャンパスを一般公開する。テーマは「はるかな宇宙をつかむ」。今年は、8月16日に打ち上げが予定されている月周回衛星「かぐや(SELENE)」の直前情報や、日本を目指して帰還飛行中の「はやぶさ」をはじめとした衛星、ロケットの模型などを展示。また、ミニミニ宇宙学校、水ロケット工作など、いろいろな体験ができる。

 時間は午前10時~午後4時30分まで。宇宙学校には山崎直子・宇宙Photo_1237飛行士が参加の予定。5会場に分かれており、第1会場(A棟)には「はやぶさブース」「月・惑星探査ブース」などがある。この一般公開の実行委員長は的川泰宣氏。的川氏はこれが最後の<御奉公>という。私は、読売・日本テレビ文化センター時代に「宇宙講座」を企画し、的川氏にはお世話になった。氏の友人5人が、「新潟被災のカンパ活動」を提案しており、的川氏は実行委員長の権限でカPhoto_33ンパを呼びかけるそうだ。

 一般公開には毎年2万人近くが訪れている。JAXAはわが国宇宙科学の最先端の現場。家族で、<宇宙体験>をしてほしい。JAXA宇宙科学研究本部(神奈川県相模原市由野台3-1-1 電話042-759-8008)。JR淵野辺駅南口から直通の無料送迎バスが運行される。案内地図・バスの時刻表は、ここをクリックして下さい。

2007年7月18日 (水)

「柏崎刈羽原発」 中越沖地震

Photo_1233  避雷針が目立つ。東京電力の「柏崎刈羽原子力発電所」(新潟県柏崎市)を見学した時の私の印象である。それもそのはず、原発が立地している新潟地方は雷の多発地帯である。その激しさは柏崎の民謡「三階節」にも唄われているほどだ。この雷に気をとらわれているスキを突かれたわけではなかろうが、原発の足元を揺さぶられたのが「新潟県中越沖地震」(7月16日発生)である。

 テレビ映像に原発から上がる黒煙を見た時には驚いた。「変圧器の火災」で本体とは関係ないものの、自衛消防隊が機能しなかった消火の手際の悪さ、加えて使用済み燃料プール隣接区域からの「放射能水の漏えい」、「放射性物質の大気中放出」---等々、地震の影響とみられるトラブルPhoto_1235が続出している。その数は50件にのぼり原子炉全7基の施設に及んでいる。安全対策は一体どうなっているのか。18日、会田洋・柏崎市長が東電に対して、消防法に基づいて「原発施設の停止命令」を出した。

 原発の発電停止で関東地方への電力供給に影響が出ており、会社や工場のエレベーターが止まってしまったという報道もある。私は原発の見学で、原子炉の<炉心>上に立った。私はやみくもに原発に反対はしない。しかし、万全の安全が保障されてのことである。敷地の直下に断層が延びているという。「地震・雷・火事・----」といわれるが、改めて地震の怖さを身に滲(し)みて感じさせた。

  東電が発表した地震の影響とみられる主なトラブルは---「全原子炉について、主排気筒の排気サンプリング装置の試料を分析。その結果、1~6号機では放射性物質は検出されなかったが、7号機では、放射性のヨウ素、クロム、コバルトが検出された。放射性物質は主に原子炉の冷却水に含まれる。大気中に放出された放射性物質は微量で、保安規定の放出上限の1000分の1程度」。「1~5号機では、建屋の屋上なPhoto_1234どを通っている排気ダクトがずれているのが見つかった。ダクトの破損や、それに伴う放射能漏れの可能性については調査中。全7基で、使用済み燃料プールの水が作業用の床にこぼれていることが確認された」。

 「1、2号機の計5台の変圧器で、固定用ボルトの折損が見つかった。3号機の変圧器火災の原因は不明だが、ほかの変圧器でも火災が起きる可能性があったことになる。1、2号機は、建屋内外の計5か所で消火用水の配管の損傷が確認されており、火災が起きた場合には消火活動に影響があった可能性がある」。「固体廃棄物貯蔵庫では、交換した配管や汚染した手袋などの低レベル放射性廃棄物を納めたドラム缶約100本が転倒し、数本はふたが開いていた。貯蔵庫内の床の汚染状況を調べた結果、17か所のうち1か所で微量の放射能が確認された。ドラム缶は全部で2万2000本あるが、そのうちの相当数の状況が未確認で、今後、転倒数は増える可能性がある(2007年7月18日1時47分  読売新聞=写真も)。

 地震は怖い。しかし、雷も油断してはならない。平地に独自にテントを張って過す避難住民もいる。行政当局が、雷への注意をうながしていたが、賢明である。地震と雷のダブルパンチ。思っただけでぞっとする。被災者の健康確保と、ライフラインの一日も早い復旧を祈るばかりである。

2007年7月17日 (火)

「FLY!パンダ」 全日空

 中国と言えば、やはり「パンダ」なのか。全日本空輸(ANAグループ)は、日中国交正常化35周年と中国線就航20周年を記念して、2007年を「ANA’S CHINA YEAR」と称し、様々な活動を展開している。7月25日からはパンダをモチーフした特別塗装機を成田--北京間を飛ばすそうだ。全日空ニュース「第07-078号」(7月13日)の報道による。

20周年特別塗装機「FLY!パンダ」が初就航

 「パンダをモチーフにした特別塗装機「FLY!パンダ」(ボーインPanda2007jul767型機)が725日(水)成田北京線905便(10:35出発)で運航を開始します。就航にあたり、724日(火)には報道関係者を対象とした披露会も予定しております。なお、特別塗装機が就航する8月の主な路線は、東京~北京、香港、広州線などです」。
 日中友好の架け橋となる「FLY!パンダ」は、機内サービスも充実、パンダをモチーフに枕、ヘッドレストカバー(いずれも当該機材のみ)、エプロン、紙コップ、お箸袋、カクテルナプキン、おつまみなどにより、中国線における多彩な機内サービスを予定しています。すでに、51日から客室乗務員もANA20周年ロゴとパンダをモチーフにしたバッジをつけて、日中国交正常化35周年、ANA中国線就航20周年を盛り上げてまいります」。
 「いままでも、またこれからも、ANAは、日中友好の架け橋となるよう努力してまいります」。

 オリンピックを迎える中国への渡航に、航空業界は今後も、あの手この手のアイディを繰り出してくるだろう。

2007年7月16日 (月)

「鯨捕りよ、語れ!」 C・W ニコル著

Photo_1224  作家、C・Wニコル氏の著書「鯨捕りよ、語れ」が7月に出版され、主な書店に平積みされている。ニコル氏は1940年(昭和15年)英国・南ウェールズ生まれ。1995年(平成7年)に日本国籍を取得し、作家活動に加えてエッセイや講演で環境問題を追求している。著書は、彼が少年時代にカナダに渡り、その後、カナダ政府の<役人>として初めて日本の捕鯨船に乗って鯨捕りとの親Photo_1225交を深め、さらに、南氷洋捕鯨船団に同行した時の鯨捕りの姿を描いたものである。この南氷洋捕鯨船団に私も同行し、一時期、母船でニコル氏と一緒に過した。著書に6枚の写真が掲載されているが、全て私が撮影したものである。奥付に、「写真 斎藤良夫」と記されている。

  1980年(昭和55年)2月5日。ニコル氏は仲積船から捕鯨母船「第三日新丸」に乗船してきた。仲積船は南氷洋で操業中の母船に食糧や手紙などを届け、母船で生産した鯨肉を日本に持って帰る船である。ニコル氏が到着した時、母船は操業の真っ最中だった。私は既に1か月以上も前から母船に滞在し、キャッチャーボートで何回かPhoto_1227捕鯨の現場を取材していた。ニコル氏とは日本を出港前に一度会っており、船団員に代わって私がデッキを案内した。彼は鯨のことは詳しいが、事業員の手際良い解体作業に改めて感心していた。以後の鯨捕りの話は著書に詳しい。私と相棒のカメラマン・大隅利克氏(故人)は2月9日に母船を後にしたので、ニコル氏と過したのは4日間だけだった。それでも、毎日、毎晩のPhoto_1226ように一緒に飲み、彼の話を聞いた。

 「私は海に飛び込むかわりに仕事に飛び込んだ」。著書にも書かれているが、ニコル氏は南氷洋に来た時、奥さん(日本人)との離婚話に悩んでいた。その時の心境を話してくれたのだ。Photo_1228「これが私の全財産です」。彼は手元に残った一冊の分厚いPhoto_1230「ペリー航海記」を持参していた。ポールド(船室の窓)越しに氷山が見え隠れし、そんな雰囲気が、お互いを感傷的な気分にした。生い立ち、カナダでの生活、グリンピース(反捕鯨団体)のこと、鯨捕りへの想Photo_1229い、小説のこと---。彼の問わず語りを、私は黙ってメモしていた。

 ニコル氏が日本の捕鯨存続に尽くした力は大きい。強力な助っ人である。東京・新宿の居酒屋で偶然お会いした時、彼は私の手を握り、涙を浮かべながら25年以上も前の南氷洋捕鯨の思い出話をした。お互いに若かった。「鯨捕りよ、語れ」は、小説風ノンフィクションと銘打っている。しかし、ニコル氏の著書の一行一Photo_1232行が、私にとっても南氷洋生活を思い起こさせてくれる貴重な記録である。自らのヒゲ面が懐かしい。帰国後、読売新聞夕刊に「クジラ最前線~南氷洋の40日~」と題した連載記事(1980.3.21~4 .18)を17回に渡って掲載した。もちろん、ニコル氏のことも触れている。私のホームページのフロント写真「南氷洋の氷山」は、この時に撮ったものである。縁あって私のスナップ写真がニコル氏の著書のお役に立てたことを心より嬉しく思っている。7月17日は、ニコル氏の67歳の誕生日である。

 「鯨捕りよ、語れ」(発行:アートデイズ、定価:1600円+税、ISBN 978-4-86119-089-6)

2007年7月15日 (日)

参院選 期日前投票

Photo_1219  台風情報を気にしつつ、晴れ間がのぞいた15日午後、参議院議員選挙の期日前投票をすませてきた。場所は、小田原市「川東タウンセンター・マロニエ」のエントランスホール。人出が意外に多かった。周囲にロビンソンデパート、イトーヨーカドなどのお店や映画館があり、日曜日というより連休の影響か。食事や遊びの途中に投票をすませようとするのか、若い親子連れが目立った。台風接近のニュースが流れる前日の土曜日、Photo_1220雨が降りしきる15日午前中も、普段の土日と同じような人の流れだったとデパートの案内の方は話していた。

 参院選は12日(木)に公示され、29日(日)が投票日である。私は、最近のほとんどの選挙を期日前に投票している。通常の投票所は、わが家から歩いて5分足らずの国府津小学校の体育Photo_1221館(第30投票所)。非常に便利な所にあり、場所は問題ないが、投票日(日曜日)は不思議と外出の予定が入っているためだ。小田原市内の「期日前・不在者投票所」は2か所で、小田原市役所内とPhoto_1222川東タウンセンター。タウンセンターへは途中までバスで行くが、わが家から歩いて行けない距離ではない。「おだわらシルバー大学」の教室もあり、通い慣れた場所でもある。

 投票所は1階ロビーに仕切りを設けて設置されおり、また、Photo_12232回ロビーからのぞき見ができないように目隠しをしている。市議会議員選挙はともかく、国政選挙の時は、わが家周辺に候補者が顔を見せたことがない。まだ、運動期間中であり、これからどうなるかわからないが、公示前に政党の街宣車が通っただけである。もっとも、私の場合は「選挙区」であれ「比例代表」であれ、先ず「政党」で、候補者名は二の次である。<義務>を果たし、29日はゆっくりと予定の<仕事?>を進められる。

2007年7月14日 (土)

明治35年の「大海嘯」 国府津

Photo_1214  大型で非常に強い台風4号が14日、九州に上陸、進路を北東に向けて15日には関東地方に接近の恐れがある。台風のニュースを聞きながら思い出したのが、「報知新聞号外」(明治35年9月29日付け)である。号外発行前日の9月28日午後、海嘯(かいしょう=大津波)が湘南地方一帯を襲った。号外は国府津海岸(小田原市)近くの別荘に住んでいた大鳥圭介氏(枢密顧問官男爵)が、九死に一生を得た様子を、氏のインタビュー記事を中心に掲載し、同時に周辺地域の惨状を伝えた貴重な記録でPhoto_1215ある。号外(コピー)は国府津在住の剱持雅章氏から拝受したものだ。この記事を含めて国府津に関連するコレクションは剱持氏のブログに詳しい。

 大鳥圭介氏のインタビュー記事(一部は現代仮名遣いと洋数字にした)を見ると---。「---午前11時ころ隣の10畳間に来てガラス戸越しに沖の方を見ると、山のような大波がドット寄せてきたと思ったまでは知ってますが、その後は一向にわかりません。ただ覚えているのPhoto_1216は、バラバラという音と真っ暗になったと思ったばかりで、この瞬間に家は潰れる、自分は家の下になっていたので生きているのか死んでるのかの差別もその時はつかなかったのです」。「両手を動かしてみたら動くし、上を見ると潰れた材木のと材木との間に三尺四方ばかり穴が開いている。その上を波が越えて行くのがよく見える。それがずっと引くのをねらって穴から潜り出ると、上では殿様はどうしたと大勢の出入りの者が騒いでいて、自分が半身を出したのを見つけて皆が引き出してくれた」。「私は他を顧みる暇がなかったが、ただ、小八幡にかけて一面海のような光景で、人家は田圃に押し出されて倒れていた。小間物の店は二階に夫婦が寝ていたまま押し流されたが助かったそうだ。私の庭にあった松のてっぺんに登った者がありましたが、松Photo_1217は海の中に立っていると同様で降りることもできなかった」---。

 この津波で国府津海岸一帯は変化し今の地形ができた。「国府津町誌」(小田原市合併記念=昭和29年11月30日発行)によると、町内の被害は死者12、行方不明3、田圃の埋没・流出2反、浸水35町5反、道路の流出破損230間、橋梁流出3、家屋の全壊39、半壊21、流出49、Photo_1218浸水68、船舶全壊5、半壊1、流出35。「天変地変」の項目に記述されているものだが、次いで「大正六年暴風雨の記」、「大正十二年大震災の記」へと続き、被害状況が詳述されている。

 今は当時と比べものにならないほど治水、防災対策が進んでいる。このところ、幸いにして国府津は大きな自然災害に見舞われていない。一方、宅地化や道路整備で側溝や水路が暗渠化し、水の流れがよくわからなくなっている。最近の大雨で森戸川の水位が逸水まで1m近くまで迫ったといわれる。こうした暗渠の水が一挙に流れ込むのだ。「怖かった」という近隣住民の声も伝わっているが、我が家でもひとごとではない。---台風4号。また、雨足が激しくなってきた。 

2007年7月13日 (金)

年賀状、あれから半年超---

 お年玉切手シート(50円+80円)が6枚。7月13日、当たり番号の年賀状を地元の郵便局に持参し、切手シートを頂いてきた。私が出したり受け取る賀状は毎年500通前後。「お年玉抽選番号」の点検はここ数年していなかった。めんどうというか、ついつい忘れてしまったからだ。今年は抽選番号表を手帳にはさんで持ち歩いていた。だから、「お年玉のお渡し期間 1月15日~7月17日」ということを知っていた。大学の授業も1セメスターが終わり、頼まれ事も一段落して賀状の束を引っ張り出してきたわけだ。郵便局に行ったら、私と同じように、17日ぎりぎりに<参上>する人がかなりいると、郵便局員は話していた。

 賀状を正月に受け取って、その後、何回も読み直したり、見直したりする人は少ないだろう。私もよほどのことがないかぎり(住所とか電話等の確認)年末までそのままだ。今回、抽選番号を確認しつつ、改めて読み直してみて、この半年間の変化に愕然(がくぜん)とする。あの元気いっぱいにメッセージを送ってくれた人が、鬼籍に入2007_1ってしまているのだ。連名で書かれた家族の一人が同じように亡くなっている。無常の世の中とはいえ、寂しい限りだ。

 写真は、今年の私の賀状である。「箱根駅伝」「宇宙ロケット」「南氷洋の氷山」「文教大学(湘南キャンパス)」「ヒマラヤザクラ」「自宅近くから眺めた日の出」をアレンジしたものである。もちろん、一つひとつに意味はあるのだが、「少しずつ、少しずつダッシュ 2007 ! 」と書きながら、私には一抹の不安があり、落ち着かない正月を過していた。白内障(2月)の手術が気になっていたのだ。幸い手術は無事に終わり、いまのところ支障も出ていない。3月からは行動範囲を広げ、学会や趣味の会、また、「談志の田んぼ」の田植えにも参加できた。夏の予定も結構組まれている。文字通り、「少しずつダッシュ」している。

 ここ数年、賀状でしか交流の無かった若者夫婦に、東海道新幹線の中で遇ったり、御無沙汰だった新聞記者時代の同期会にも顔を出せた。パソコン賀状が多い(私もそうだが---)中で、ひときわ踊るような手書き文字に魅入ったり---賀状を見ながら、半年間の動きが脳裏をよぎり、しばしば抽選番号照合の手が滞りがちになった。そして、やはり残念なのは訃報である。加齢とともに、一日が短くなるのは、同僚諸氏も実感するところであろう---。

2007年7月12日 (木)

「授業アンケート」 大学

Photo_1213  「授業についてのアンケート」---学生が教員の授業を評価するシステムである。「大学における教育内容等の改革」の一環として、「授業の質を高めるための具体的な取り組み」の一つとして文部科学省の<指導>のもとに実施されている。文教大学(湘南キャンパス)における私の授業の今年度「1セメスター」が7月11日に終了した。最終授業の冒頭にアンケートの記入を実施した。記入はマークシート方式で、匿名で、強制ではない。私のクラスの登録学生は60人。このうち5人が初日から欠席し、各回の出席者は50人前後。アンケートは学生に回収してもらい袋に入れてそのまま事務局に提出した。後日、担当教員に渡されるそうだが、その場では、アンケートの中身は不明である。

 質問は4項目あり、①あなた(学生のこと)自身の授業への取り組み②この授業の進め方と教員の取り組み③授業科目の内容④自由記述(要望や感想など)について、5段階の評価を求めている。個人的に関心を持ったのは、①学生の授業への取り組みで、Q1)出席率、Q2)予習復習に当てた1授業当たりの時間、Q3)授業に集中し、客観的に評価できるだけの勉強をした---との設問である。この回答だけはぜひ見たいと思っている。記入に当たって私があえて一言語ったのは指定された「HBの黒鉛筆」の使用であった。これは、今後の就職、資格試験の時に、指定以外の筆記用具を使うと失格になる恐れがあり、普段から注意していることだった。「このアンケートに、あなたの成績に影響を与えることは、まったくありません。率直に回答してくれるよう協力をお願いします」と、用紙に明記するなど大学側は学生達にかなり気を遣っている。調査は全授業に対して実施されており、学生達は慣れた?手つきで鉛筆を走らせていた。

 文部科学省によると、平成17年度の授業評価実施校は508大学、全大学の71%に当たる。内訳は国立58大学(全体の約67%)、公立49大学(同67%)、私立401大学(同73%)。平成9年度の全実施校が272大学というから、ほぼ倍になっている。そして、この評価の結果を改革に反映する取り組みが行われている大学は335大学(国立45、公立25、私立265)という。その具体例として次の3大学をあげている。

 「学生による授業評価結果を教育優秀者の表彰に活用するとともに、評価の低い教員に対しては役員による授業参観を実施し、改善提案を行っている」(北見工業大学)。「評価結果が上位の教員の授業を公開またはビデオ撮影し、他の教員の参考としている」(岩手医科大学)。「学生による授業アンケート結果を活用して『Rikkyo授業ハンドブック』を作成し、全教員への配布を行った」(立教大学)。授業評価についての取り組みをホームページで発信している大学も多い。工学院大学は、授業改善について以下のように述べている。

 「教育評価は、教員自らが行う自己評価、その受け手である学生による授業評価、教育者の視点に基づく教員相互の評価の三つがセットで行われることが大切であると言われている。よりよい授業を実現するために、学生が率直な意見を述べるとともに、教員が学生の意見を真摯に受け止め、相互に信頼関係を構築しながら、今後一層の授業改善に取り組み、継続的ファカルティ・ディベロプメント(FD)活動に展開していきたいと考える。また、一方では、施設・設備に関するアンケート調査を実施し、質の高い授業を支える前提条件の整備について共通認識を得る努力も必要とされよう」

 文部科学省の関係者と話したり、各ホームページを見るにつけ、驚いたり、考えさせられたというのが私の感想である。最近、新聞各紙が教育、とりわけ大学問題を掲載するスペースが増えてきた感じがする。何故なのか。読むのはなかなかシンドイが、今はがまんして目を通すことにしている。

2007年7月11日 (水)

「プロレス」観戦のすすめ

Photo_32  「小田原で行うプロレス興行を見に行ってくれませんか---」。こんなメールが10日、神奈川県立小田原高校の教頭・神戸秀巳氏から届いた。興行の主は、埼玉県越谷市を中心にプロレス集団「バトラーツ」代表として活躍している石川雄規氏。小田原高校(略称=小田高)を昭和60年に卒業した小田高OB。神戸氏も小田高の28回卒業生で、同窓会の会報担当校内幹事(卒業生教員)の時に、知人の紹介で石川氏に会い、話をし、彼の試合を観て、「私も頑張ろう!」と思ったことが何回もあるそうだ。「バトラーツ」は全国を回っているが、「小田原の入りが一番少なかく、くやしかった」と聞いて、神戸氏が個人的に人肌脱いで小田高OBはじめ、多くの友人・知人に観戦を呼びかけているのだ。アメリカに単身乗り込んで修業し、「バトラーツ」を旗揚げして10年。石川氏の「熱き情念」を自ら教員生活に活かしている神戸氏の熱気と友情が、また伝わってくる。神戸氏のメールを転載する。

小田原高校の卒業生の皆様 及び卒業生の関係者の皆様

 小田原高校の神戸秀巳(高28回卒)です。進路関係以外で皆様に情報を発信することをお許しください。今回は小田原高校を昭和60年に卒業し、現在埼玉県越谷市を中心にプロレス集団「バトラーツ」代表として活躍している石川雄規さんが7年ぶりに故郷小田原で行う興行についてご案内申し上げます。

 8月12日(日)小田原マロニエホール(鴨宮、イトーヨーカドーの隣り)午後4時30分開始 SRS(指定席) 5,000円 自由席4,000円 高校生2,500円(小田高生割引 2,000円) 中学生1,500円 小学生以下無料 ※お子様連れでも一人分料金でOK

 5年ほど前に小田原高校同窓会会報『八幡山』でも「活躍する卒業生たち」に登場してもらいました。小学生の時からアントニオ猪木にあこがれ、「夢」を果たすべく努力を重ね、大した情報もなしにプロレスの神様カール・ゴッチに会いにアメリカに単身乗り込み、直接手ほどきをうけ、帰国後に藤原組長のもとで修行を積み、一度はあの「プライド」にも参戦。その後、「バトラーツ」を旗揚げして10年になります。その「熱き情念」石川雄規が小田原に戻ってきます。「全国を興行して回って小田原が一番お客さんが入らなかった」と悔しがっていた彼を今度は皆様の温かい応援、熱いまなざしで迎えていただければと思います。小田原高校を始め、小田原市内の小学校や中学校などで講演を何回かしているので、石川雄規をご存じの方もけっこうの数いるかと思います。

 皆様とともに、友人「石川雄規」を迎えてやりたいと思います。何とぞご協力のほどお願いいたします。ポスターがそろそろ送られて来て、小田原の街に貼られることと思います。今回は「平成のテロリスト」村上和成も参戦します。プロレスを観たことがない方も彼らの熱気が伝わる「バチバチ」プロレスを観たら、きっととりこになるのではと期待しています。試合終了後の記念写真もたぶんOKです。私の他にも同じように知り合いに働きかけをしている人たちがいます。チケットの購入方法は何通りかありますが、もし私に連絡をいただければ、私が石川雄規に直接申し込みます。お金は当日でもOKです。バトラーツのFAX番号と合わせて書きますので、よろしい方を選択してください。

 事前に石川雄規に会ってみたい方、石川雄規の試合(DVD)を観たい方は7月29日の小田原高校同窓会ホームカミングデーに足を運んでいただければかなうはずです。ホームカミングデーの正式のゲストではありませんが、「時間を割くことが可能」との話でしたので、何とか実現させたいと思います。チケットの購入方法(いずれも場合も現金は当日でOK)。お名前とチケットの種類、枚数、連絡先 もし可能なら卒業回(卒業年)も・神戸宛メール  hide3kjpjp@ybb.ne.jp 神戸宛FAX  0465-36-9938 バトラーツ宛FAX(「神戸から」と書いてください)0489-63-4188

 仕事に関係のないメールを差し上げ、気分を悪くされた方には謝ります。たまたま同窓会の会報担当校内幹事(卒業生教員)として、ある方の紹介で石川雄規さんと知り合いました。彼と話をして、彼の試合を観て、「私も頑張ろう!」と思ったことが何回もあります。今回の小田原興行がそんなきっかけになったらとても嬉しいです。もしよろしかったら、知り合いにこのメールを転送していただけるとありがたいです。

2007年7月10日 (火)

居酒屋「樽一」会の夕べ

Photo_1210  「今夜は大変格調高いイベントにお誘い頂き、且つ初めての経験で、新鮮で有意義な楽しいひと時を経験させて頂きましたことに感謝いたします---」。9日夜、帰宅したらこんなメールが届いていた。友人からだった。イベントは、東京・歌舞伎町にある居酒屋「樽一」(佐藤慎太郎店主)が9日夕に開いた「第55回樽一会」。旬の魚や野菜・果物に加えて鯨料理などを振舞う年3~4回の樽一料理を楽しむ会。酒は日本酒が中心で、蔵元や杜氏も顔を見せている。友人は日本酒に蘊蓄(うんちく)が深く、彼にぴたりの会と思って誘った。早速の返礼メールに、こちらが恐縮した。Photo_1205

 献立はPhoto_1206---「天然鯛姿造り」の刺身から、「三陸直送保夜酢きゅうり和え」「水なす(京都丸茹子)」、「天然若鮎塩焼(琵琶湖産)」、「鯨の自家製ベーコン」、「まぐろほっぺのレアチーズ和え」、「笹かれい唐揚げ」、「としろ(あわび肝塩干)」「ソーメン」「西瓜」-Photo_1208--まで様々。この日の日本酒は「南部美人」(岩手)、「龍神」(群馬)、「賀茂鶴」(広島)、「浦霞」(宮城)。それぞれの<逸品>(一Photo_1207品)を持ち寄り、酒造会社の社長や関係者が話をした。「龍神」は杜氏が群馬からわざわざ駆けつけた。 樽一会は、近衛道隆氏を名誉会長に、小泉武夫氏と梅崎義人氏の二人が副会長、狩野Photo_1211敏也氏が事務局長を務めている。この日の参加者は約90人。ちなみに会費は女性8000円、男性10,000円である。

 私は樽一に通う回数は少ないが、店とはもう30年以上のお付き合いをしている。樽一が鯨料理を扱っていること、私が読売新聞記者時代に南氷洋捕鯨に同行取材をした<鯨の御縁>による。捕鯨母船で一緒だった作家のC・W ニコル氏は、時々、樽一でマスコミの取材を受けており、偶然お会いして旧交を温めたことも何回かある。先代店主の佐藤孝氏とはIWC(国際捕鯨委員会)京都会議にご一緒したり、よく鯨関係のイベントで顔を合わせた。その先代も今は亡く、7月7日が4回目の祥月命日だった。私は先代の思い出も<肴>にして、久しぶりに会った友人達と歓談した。

 「紅色の玻璃(はり)の盃冷酒の季」(京極杜藻)---第55回樽一会案内の冒頭に添えられていた一句である。

2007年7月 9日 (月)

世界の「新七不思議」

Photo_1199  「新・世界七不思議」が9日付けの読売新聞朝刊に掲載されている。「チチェン・イッツァのピラミッド」(メキシコ)、「イエス・キリスト像」(ブラジル・リオデジャネイロ)、「万里の長城」(中国)、マチュ・ピチュ(ペルー)、ペトラ(ヨルダン)、コロッセオ(イタリア・ローマ)、タージ・マハル(インド)。人類がつくったユニークな建造物を後世に伝えることを目的に設立された「新・世界不思議財団」(スイス)が、インターネットなどを通じて投票を募り、世界約一億票から選ばれたという。

 世界遺産などを紹介するテレビや旅番組、映画の舞台にも登場してPhoto_1202いる建物で、実際に行かなくても馴染が深い名前である。財団はスイスの映画監督ベルナルド・ウェーバー氏が2001年に設立した。古代ギリシャ時代に選ばれた「世界の七不思議」のうち、現存するのはエジプト・ギザのピラミッドだけという状況を憂いて新たな七不思議の選定が企画された。日本の建築家・安藤忠雄氏が参加している。

 昨年10月に21の候補地が発表され、日本からは「清水寺」がノミネPhoto_1200ートされた。最終結果は7月7日にポルトガルのリスボンで発表された。「清水寺」、「ギザのピラミッド」、「エフェル塔」、「自由の女神」、「クレムリンと赤の広場」などは選からもれた。世界遺産に関係するユネスコ(国連教育・科学・文化機関)は6月20日に、この企画とはなんら関係ないとの声明を発表している。また、「WONDER」は<不思議>と翻訳されているが、<驚異的な>というニュアンスもあるため、必ずしも不思議なものばかりではない。むしろ、歴史的にほぼ解明されており、「ほとんどが不思議でもなんでもないもの」である。しかし、どれも驚異の建造物で、先人の知恵に驚くばかりだ。

 子どものころの話だが、東京・帝国劇場で「世界の七不思議」を大画面のシネラマで観た時の印象は今でも忘れない。<七不思議>には夢がある---。

2007年7月 8日 (日)

「大鳥圭介」と、ばら苑主の死

Photo_1203 Photo_1194  著書「大鳥圭介の英・米産業視察日記」(図書刊行会)が著者の福本龍氏(73歳)から7日、贈られて来た。大鳥圭介は江戸幕末の歩兵奉行。戊辰戦争で敗北し函館で降伏した。後に明治政府によって卓越した能力を買われ、外交面で活躍した。引退後の明治25年、小田原市国府津に別荘を構えた。福本氏は圭介の妹・於勝の曾孫で神戸在住の医師。「われ徒死せず---明治を生きた大鳥圭介」(同)の著書もある。「英・米視察日記」は、明治5~6年頃のイギリスやアメリカの工業を視察した詳細な日記。この体験をもとに、圭介は政治家、科学者、教育者としても明治新国家建設に多大な貢献をした。

 国府津の別荘は、先ず明治24年に国府津海岸近くに土地を購入し、翌年建設した。ところが、明治35年9月の小田原大津波(大海嘯)で別荘は崩壊、圭介は近所の人に助けられ、九死に一生を得た。2年後、海岸から離れた国府津・岡地区の山裾に新たな別荘を建て移り住んだ。明治44年、地元の医師に看取られて80歳の生涯を閉じた。国府津には圭介の様々な揮毫が残Photo_1197されている。

 圭介が最初の別荘を建てた土地は、現在、ばら苑になっている。苑の現在の主が加藤久四郎氏。加藤氏は7月1日午前7時過ぎに脳梗塞のために急死した。74歳だった---。福本氏は圭介の日記を書くにあたり、圭介ゆかりの土地を歩いて回り、平成17年(2005年)12月13日に加藤氏のばら苑を訪れた。加藤家には圭介から一幅の掛け軸を贈られていた。新屋(別荘)落成の喜びをあPhoto_1195らわしたものだ。Photo_1196

 「幾回(いくかい)か険(けん)を履(ふ)んで意(つい)に如何(いかん) 天助冥々(てんじょめいめい)として感余り有り 三 十年来勤險(きんけん)に志し 徳成り老(おい)を養う一蝸廬(かろ=せまい家)」。加藤氏と福本氏は掛け軸の前で二人並んで写真(左が加藤氏)を撮った。福本氏は加藤氏の逝去を知らないと思う。加藤氏の初七日に福本氏の著者が届くとは---。私は加藤氏から相談を受けていたものがある。ばら苑内の敷地のどこかに、「大鳥圭介別荘跡」の掲示とともに圭介の功績を書いた案内板を立てられないか、というものだった。文言を考えていなかったわけではないが、私が約束を果たせないまま、加藤氏は逝ってしまった。

 「大鳥圭介の英・米産業視察日記」のページをめくりながら、加藤氏と福本氏の出会いを思い浮かべつつ、改めて加藤氏を偲んだ。

2007年7月 7日 (土)

「城下町ホール」 建設異聞

   「『市長Photo_1191~ん、考え直していいホールをあわてずにつくりましょう』。それが五十年、百年先の小田原の為ですよ。ここ小田原は北条氏の城下町なんですから、本当に市民の事を考えましょう」---。俳優、阿藤快氏(60歳)を囲む会が6日、小田原駅ビル「ラスカ」5階のサロンで開かれた。阿藤氏は小田原市出身で市の<城下 町大使>を務めている。市は現在、平成21年度の開館を目指して「城下町ホール」(仮称)の建設計画を進めている。この建設に対する阿藤氏の<本意>を聞くための集まりである。「広報おだわら別冊」(5月10日・全戸配布)に、一日も早い完成を待ち望む阿藤氏ら4人の期待の声が掲載された。しかし、これは「阿藤氏の確認を取らずに掲載したもの」と、お詫びの記事が「まちづくり情報誌 小田原」(6月1日号)に掲載された。その後、建設見直しを求める手紙形式の文章(冒頭)が地元紙に掲載されるなど、阿藤メッセージ問題が市議会でも取り上げられた。市民の間に城下町ホール建設計画に賛否両論があり、今回の件は二つの問題を考えさせられた。

 一つは、政争や社会問題になっている事柄に対する「城下町大使」の起用について。一つは、俳優の所属事務所が了解したものは、俳優が了解したことと一致する。俳優に限らず、事務所が代筆する事はよくあることで、「事務所が本人の了解を得なかったので---」ということは事務所内部の問題であPhoto_1192る。お詫びの記事掲載は不可解であること---。

 城下町大使は現在、俳優、作家、声楽家、学者ら計18人。「全国津々浦々で小田原のPRやイメージアップに一役買ってもらう」のがねらい。阿藤氏が小澤良明市長から頼まれた時、「---大使など大仰なことはできない」と答えたら、「ただ、『小田原の出身です』と言ってもらえればよい」と市長から言われたという。そして、もちろん全員、全部ではないが、外部に発信するメッセージは市で作成し、本人なり事務所の了解のもとに行われている。有名人はなかなか執筆する時間がとれないからだ。今回の阿藤氏の例をとれば、市側が作成した文章をFAXで事務所に流した。事務所側は「お祝いメッセージと言われていたので、特に問題がないので本人に確認するまでもなく了承した」と話していた。阿藤氏も「小田原のことはほとんど事務所任せ」とも言っていた。一言でいえば、阿藤氏も事務所も、城下町ホールの内容、建設に対して反対運動があることなどは知らなかった。知らされていなかった。「広報おだわら別冊」を市内の親しい知人から渡されて「驚いた」という。この点から言えば、阿藤氏は政争の具に使われた被害者といえる。城下町大使が個人として意見表明することは、もちろん自由である。

 二つ目。「まちづくり情報誌 小田原」のお詫び記事。「訂正記事」ではない。「記事は市側が書いた。事務所は本人の確認を取らずに掲載を了解した」と、わざわざ事務所の名前まで付けて載せていた。「---だからどうなんだ」という点が一切不明だ。事務所がOKすれば、本人が了承していると考えるのは常識である。阿藤氏のメッセージ掲載手続きについての市議会での質問に対し、小澤市長は「タレントの代理人である所属事務所が了解している以上は問題なかった」(6月23日付け神奈川新聞)と答弁しているが、その通りである。ただ、「城下町大使を務めてもらうなど貢献を総合的に判断し、訂正した」(同)と述べたそうだが、とても訂正記事とは読めない。新聞記事の通りとすれば、「市長は何を言っているんだ。阿藤氏に対して、なぜそこまで気兼ねして紙面を提供するのか。お詫びをするなら、むしろ、市外に対する広告塔の役目をする城下町大使を応援団に入れた人選の不見識さを謝るべきではないか」---。私はそう思っている。

 阿藤氏は6日午前11時から小田原市役所内で記者会見した。Photo_1193「私の言動が誤解されている。<二枚舌>とも受け取られかねないので、本意を聞いてもらうために行った」と、記者会見の趣旨を話していた。各社はほとんどそろい、テレビカメラも入ったそうだ。「阿藤氏を囲む会」(世話役=高橋台一氏)は午後2時から約2時間行われた。記者会見の報告を兼ねた懇談会で、市会議員4人、劇場関係者、建設見直しを求めるグループメンバー、タウン紙記者ら約30人が集まった。私は阿藤氏の口から直接事実関係を確認するために出席した。阿藤氏に会うのは初めてである。

 5月3日の「北條五代祭り」の終了後に市長に会ったこと。5月16日に「市長への手紙」を市役所総合受付経由で届けたあと、高校時代の同窓会場のホテルで、市長に偶然会い20~30分話したこと。以後、市長とは会っていない---ことから、6月26日の市議会本会議での市長答弁まで、時系列に並べられた文言資料をもとに、阿藤氏は主に市長との接点の話をした。「握手してわかれた。了解を得られたというふうに考えている」という市長答弁に、「握手などしていない」等、不快感をあらわにしていた。城下町ホールそのものの建設に反対ではないが、その設計に異論を唱え、冒頭の時間をかけた見直しを求め、「それが私の本心である」と強調していた。

 城下町ホール計画に対し、市民の中から住民監査請求や工事差し止め訴訟が起きている。建設費用はホールだけで約63億円。神奈川県企業庁の「地域振興施設等整備事業」を活用する。市の要請で県企業庁が建設し、完成後に市が分割払いで県から建物を買い戻す仕組みである。阿藤氏の記者会見の記事は7日付けの朝刊紙面(神奈川新聞、朝日新聞、神静民報=私の確認した範囲)に掲載されている。

2007年7月 3日 (火)

「美しい日本の粋」

Photo_31  日本<らしさ>、日本<ならでは>---とは? 「美しい日本の粋(すい)」をテーマに、内閣官房「美しい国づくり」推進室が公募した応募件数は3000件を超えた。詳細は後日発表されるが、その中間発表(1821件)がホームページなどで公表されている。項目別内訳は、「気質」(41%)を表すものがトップ。思いやり、礼儀正しさ、おかげさま、調和、平和、武士道精神、恥を知る、謙虚、勤勉、義務教育、清潔、年配を敬う、もったない、わびさび---等々。次いで、「伝統・文化・芸術」(20%)、「自然」(15%)、「生活様式・景観」(14%)、「ことば」(7%)、「技術」(3%)となっている。

 募集は4月20日~6月22日まで行われた。①「日本の粋とは何か」(31字以内)②それを選ぶ理由と、「それ」が自分の暮らしの中でどのように表れているか(100字以内)を、それぞれ明記してもらった。男64.6%、女34.7%で、年齢別では50~59歳(23.3%)が多く、50歳以上が52.5%と半数を占めていた。若者が少ないのは、携帯サイトでの応募システムがなかったためではないか、と事務局では話していたPhoto_1187

 「美しい国づくりプロジェクト」は安倍内閣発足とともに設立され、日本画家の平山郁夫氏が座長となっている。政権がやることには、批判がつきものであり、時には無視されることがある。事務局の中には当初、「美しい日本の粋」募集にヒヤカシもあるのではないか、と心配する向きもあったらしい。しかし、フタを開ければ真摯(しんし)なものばかりで、逆に驚いているのが現状のようだ。で、肝腎の「美しい国づくり」企画会議メンバーは、応募の中身をどう受けPhoto_1186止めて、今後にどう活かそうと考えているのだろうか。メンバー(12人)の一人、松永真理氏(バンダイ取締役)の感想を聞いてみよう。

 「美しい日本の粋(すい)」とは何かの問いかけに、先日、2500件を超える応募がありました。正直、これほどの数にのぼるとは思ってもいませんでしたし、それらのすべてに目を通すことがこれほど面白いものかということは想像もしていませんでした。
 文字数が31字と制限されていたのも、幸いしたのだと思います。普通の審査だと、事務局のほうで粗よりされたものを読むことが多いのですが、今回のように短文であると、応募のすべてを読むことができました。
 さらに、読み進むうちに、「美しい日本の粋(すい)」をどうとらえているのか、自分の深層心理がわかPhoto_1188ってきたのが興味深い体験となりました。日本の祭りにはずっと関心を寄せているので予想どおり反応しましたが、深層心理といったのは、「水田」「稲田」に関するものでした。
 近ごろ目にすることのない田んぼの風景というものが、読み進むうちにどんどんイメージが広がっていったのです。田んぼを抜ける風の匂いや、水の清らかさ、そして空の青さといったものが、突然よみがえってきました。「稲穂の満ちた国」なんだということが、遠い昔の記憶から飛びだしてきて、今も自分の体内に根づいていることに気づかされたのです。
 そういえば近ごろ、旅に出て思うことがあります。ここに住んでみたいと思う地域と、とても住めないと感じてしまう地域の違いは何なのか、と。脳の奥の、いちばん奥のところで「水」と「緑」の心地よさに敏感に反応している自分が、そこにいたのでした。(「安倍内閣メールマガジン」第35号=6月28日)

2007年7月 2日 (月)

「私の八月十五日」 展

Photo_1183 Photo_1182   第ニ次世界大戦終戦の日---「昭和二十年(1945年)八月十五日」を、私達はどこで迎え、何を思ったか。そんなテーマの「『私の八月十五日』展」が、神奈川県立地球市民かながわプラザで開催中(6月23日~7月29日)だ。一人の人間が体験した戦争を、絵と文章で紹介する展覧会で、漫画家 を中心に作家・俳優らの120点を越す作品が並べられている。「第ニ次世界大戦はすっかり過去の事となり、忌まわしいその記憶も歴史のページの中にPhoto_1167埋もれかけている。---この展覧会は、その時代を生き、戦Photo_1178争を肌で感じた我々仲間達の、昭和二十年八月十五日の記録である」(漫画家・森田拳次氏=「私の八月十五日」の会代表)。

 メンバーPhoto_1169は漫画家が多く、森田代表を含めて旧満州(Photo_1175中国東北部)からの引揚者が目立つ。その一人、髙井研一郎氏(「総務部総務課・山口六平太」の作者)をはじめ、出品者の中には友人や知人が何人もいる。企画を知った段階で一日も早く観たいという思いが、1日にやっと実現した。会場には、「15歳Photo_1180以上」「10歳~14歳」「7歳~13歳」「4歳~6歳」「3歳以下」と、出品者の終戦当時の年齢にわけて作品が並べられていた。いわゆる<玉音放送>を聴く場面が多いが、大概は何を言っているのかわかPhoto_1165らない。ただ、大人の態度から「日本は負けたのだ」、「戦争は終わったのだ」ということを知り、そPhoto_1176の日からの感想、体験を描いている。その内容は子ども心にも重く、深く、もし絵が漫画でなければ、リアリティ過ぎて作品を直視できないPhoto_1171のでは、と思ったりした。

 当日目にした客は中高年が大半だが、日曜日 とあって若者や親子連れの姿もあった。中高年の皆さんは、作品の向こうに自らの「八月十五日」を投影しているかのように、食い入るように見Photo_1173つめていた。私は当時満4歳と7か月。その日のことは覚えていないが、それなりの体験はある。一緒に外で遊んでいた友人が右腕を機銃掃射で撃Photo_1174たれた。幸い命は取りとめたが、撃たれた瞬間に地面から1m近くも跳ね上がった姿を今でも鮮明に記憶している。会場には戦争の<遺物>も展示されていた。焼夷弾を見た時には、わが家の近くの小学校の倉庫を思い出した。数多くの焼夷弾やグライダーの残骸が置かれていた。焼夷弾はその後、泥濘(ぬかるみ)の校庭の板敷き・橋ゲタ代わりに使われていた。

 東京・浅草の浅草寺(せんそうじ)境内に「満州地蔵」と呼ばれる母子地蔵がある。漫画家達が、中国から日本に引き揚げる途中に亡くなった20万人Photo_1172にものぼる犠牲者の霊を慰めるために建立したものだ。漫画家達には「ボクの満州~漫画家たちの敗戦体験」(中国引揚げ漫画家の会編=亜紀書房)という著作がある。「中国残留孤児問題を語るとき、他人事(ひとごと)ではないと感じる。ボクたちの運命は紙一重であった---」と、生かされた命に感謝して、「平和」を訴えている。今回の作品展もその一環である。

 「私の八月十Photo_1179五日」展に名前を連ねている漫画家の面々は、赤塚不二夫、上田トシ子、ちばてつや、北見けんいち、石子順、古谷三敏、横山孝雄---。漫画家以外に、こんな人々の名前が見受けられた。高倉健、山田洋次、三浦朱門、永六輔、黒柳徹子、小沢昭一、林家木久蔵、海老名香葉子、志茂田景樹---。漫画家も、それ以外の方々の名前も、ほんの、ほんの一部であり、名前の掲載に他意はない。「私の八月十五日」展が神奈川県立地球市民かながわプラザで開催されるのは初めてだが、展覧会そのものは5年以上前から各地で巡回展示されている。出品者の中には故人もおり遺作が展示されている。

 「この描かれた一日は、書き手がその後、どのように生きてきたのか、その一日をどのように捉えているのかも伝えます。どうぞ、その想いに耳を傾けてください。そして、戦争体験者は今一度自身の体験を振り返り、また是非、次世代の方にその体験を伝えてください」---。

2007年7月 1日 (日)

小田原「安心・安全メール」 6月

 小田原市暮らし安全課からの6月のメールは以下の3件だった。小田原市内というより神奈川県内全域に渡っての数字であるが、引ったくり事件が増えている。Photo_29

◆(神奈川県警察本部生活安全総務課からの情報)今年の628日現在、神奈川県内におけるひったくりの発生件数は1,131(手集計)で、昨年同期と比較すると33件の増加となっております。被害の実態として、被害に遭われたほとんどの方は、自分が被害に遭うとは考えておらず、何の防犯対策もとっていませんでした。  被害防止策として----バッグ等は車道と反対側に持つできるだけ人通りの多い明るい道を歩くヘッドホンや携帯電話を使用しながら歩いたり、自転車に乗らない自転車の前カゴ等には防犯ネットを使用するなど----。自分でできる防犯対策に心掛けましょう。テレビ神奈川「コンシェルジュ神奈川」が、71日(日)午前940分ころから「ひったくりに遭わないための防犯対策」について紹介します。参考にして下さい。(入電=6月29日15:23)

◆(水道局からの情報)小田原市栢山及び寿町で、水道局の職員もしくは、水道局から依頼されたと詐称し、水道水の検査をする業者が現れたとの通報が613日に3件ありました。業者は「近隣で濁りが出ているので検査をさせてほしい」、「水道水が原因で肌荒れがひどくなったという苦情が水道局に300件も来ている」と話し、そのうち1件では室内に上がって、水道水の検査をしたとのことです。水道局ではこのような検査の実施もしくは業者への依頼はしておりません。水道局員が検査を行なう場合は、必ず職員証を携帯しておりますので、不審な場合には職員証の提示を求め身分を確認するか、水道局(0465-41-1202)へお問合せください。(入電=6月13日17:56)

◆〈学校からの情報〉小田原警察署少年係から連絡がありました。611()2100頃、小田原市小八幡で、自転車で帰宅途中の女子高校生が、不審者に肩をつかまれ押し倒されるという事件が発生しました。  女子高校生にけがはありませんでした。犯人は逮捕されました。(入電=6月13日8:49)

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